藤原道長の義母にあたる藤原穆子の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原穆子の死因は、病気
- 西暦1016年8月31日(長和4年7月26日)に亡くなった、享年86歳
- 死ぬ前に、ひ孫・後一条天皇が即位した
- 藤原道長の将来性を見抜き、娘の源倫子を嫁がせた。
- 子孫は、現在の天皇陛下、または元首相・細川護煕、鎌倉時代に鎌倉幕府4・5代将軍となった藤原頼経・頼嗣
- 死後、藤原道長の一家三立后達成、という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原穆子の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原穆子の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原穆子の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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藤原穆子の【死因】と【最後の様子】
藤原穆子の【死因】
【結論】藤原穆子の死因は、病気
藤原穆子の死因は病気です。詳しい病名はわかりません。
娘の源倫子と、その夫である藤原道長が、ともに看病したといいます。
その甲斐もなく、穆子は亡くなりました。
しかし、ひ孫にあたる後一条天皇が即位したことを確認して亡くなったので、満足のいく最期だったと思われます。
藤原穆子が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1016年8月31日(長和4年7月26日)、享年86歳
藤原穆子の【生涯年表】
藤原穆子の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
931年 | 藤原朝忠の娘として誕生 |
???年 | 源雅信と結婚 |
964年 | 源倫子を出産 |
987年 | 娘・源倫子が藤原道長と結婚 |
988年 | 孫・藤原彰子が誕生 |
993年 | 夫・源雅信が死去 |
1001年 | 70歳を祝う加持祈祷が行われる |
1016年 | 曾孫・後一条天皇が即位 |
1016年7月26日 | 86歳で病死 |
藤原穆子の【功績】とは何か?
【結論】藤原穆子の功績は、藤原道長の将来性を見抜き、夫の反対を押し切って娘の源倫子との結婚を強引にすすめたことです。
藤原穆子は、強引に源倫子と藤原道長の結婚をすすめて、結果的に娘を三后の母そして天皇の祖母へと押し上げることになります。
藤原穆子の夫・源雅信は、娘の源倫子を、天皇の妃に着ようと考えていたといいます。
天皇といえば、一条天皇またはその皇太子だったのちの三条天皇です。
そんな中で、藤原道長が源倫子へ結婚を申し込んできたのです。
源雅信は、この結婚に反対しようとしたのです。
藤原穆子は、そんな夫が望む、娘の源倫子を天皇の妃とする希望に、真っ向から反対します。
理由は簡単で、一条天皇も三条天皇も、ともに幼すぎて、源倫子とは10歳前後も歳が離れていたためです。
そんな天皇に嫁がせるより、最高権力者である藤原兼家の子である道長に嫁がせたほうが、将来性があると考えたのです。
987年、藤原穆子は強引に源倫子を、藤原道長に嫁がせてしまいます。
結果として、8年後の995年、道長はライバルであった甥の藤原伊周との権力闘争に勝利し、氏長者(藤原氏一族のトップ)となります。
その後、道長は権力の頂点を極め、まさに藤原穆子の予想は大当たりしたのです。
藤原穆子の【子孫】は現在、どうなっているのかを解説
【結論】藤原穆子の子孫には、現在の天皇陛下、元首相・細川護煕さんなどがおられる
藤原穆子の子孫は、道長と倫子を通じて、現在の天皇陛下や、五摂家・近衛家の子孫である元首相・細川護煕さんにつながっています。
また、娘のひとりが、藤原道長の異母兄・藤原道綱へ嫁いでいます。
その子孫が、鎌倉時代の関白・九条道家という人物です。
この九条道家の息子が、鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経です。
またその頼経の子が、5代将軍・藤原頼嗣です。
藤原穆子の子孫は、鎌倉幕府の征夷大将軍となっているのです。
余談ですが、藤原穆子の子孫である九条道家は、京都に東福寺というお寺を建立した人です。
東福寺は紅葉の名所として有名なところです。
この東福寺には、豊臣秀吉の妹で、徳川家康の二人目の正室となった朝日姫のお墓があります。
藤原穆子の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原穆子の死後、藤原道長が一家三立后を達成して「望月の歌」を詠む、という事件が起こりました。
後一条天皇が即位すると、藤原道長は源倫子とのあいだに生まれた娘・藤原威子を嫁がせます。
これにより、道長と倫子のあいだに生まれた娘三人が、3つの皇后の位を独占することになります。
つまり
- 先々代の天皇・一条天皇の后である藤原彰子(太皇太后)
- 先代の天皇・三条天皇の后である藤原姸子(皇太后)
- 当代の天皇・後一条天皇の后である藤原威子(皇后)
三人の皇后を、全て藤原道長と源倫子の一家から生まれた娘で独占したのです。
これを「一家三立后」といいます。
三人目の娘である威子を、後一条天皇に入内させた直後、道長は有名な望月の歌を歌っています。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
この世はまるで、私のためにある世のようだ。満月のように、欠けたところもない
道長は、藤原穆子の期待以上に、権力の絶頂を極めたのでした。
その後、道長は九体の阿弥陀如来像と自分の手を糸で結び、極楽浄土へ行くことを夢見て亡くなります。
藤原穆子の娘・源倫子は、娘の威子と孫の後一条天皇の間に生まれた、孫であり同時にひ孫でもある後冷泉天皇が即位したあと、90歳で亡くなります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原穆子の『死因』は?
死因は、病気
2,藤原穆子が【亡くなった日時】は?
- 西暦1016年8月31日(長和4年7月26日)に亡くなった、享年86歳
3,藤原穆子の【最後の様子】とは?
最後の様子は、ひ孫・後一条天皇が即位した直後に亡くなった
4,藤原穆子の【功績】とは?
藤原道長の将来性を見抜き、娘の源倫子を嫁がせた。
5,藤原穆子の【子孫】とは?
子孫は、現在の天皇陛下、または元首相・細川護煕、鎌倉時代に鎌倉幕府4・5代将軍となった藤原頼経・頼嗣
6,藤原穆子の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、藤原道長の一家三立后達成、という事件が起こった
以上となります。
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