藤原道長の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原道長の死因は、【糖尿病が原因の多臓器不全】
- 【西暦1028年1月3日(万寿4年12月4日)】に【62歳】で亡くなった
- 死ぬ前に、【阿弥陀如来像の手と自分の手を糸でつないだ】という
- 有名な【望月の歌】を残した
- 道長の子孫には【元内閣総理大臣・細川護煕さん】や【明治神宮の宮司・九条道成】がいる
- 死後【後三条天皇の即位】という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原道長の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原道長の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原道長の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原道長の【死因】と【最後の様子】
藤原道長の【死因】
【結論】藤原道長の死因は、糖尿病による多臓器不全
道長の死因は、糖尿病による多臓器不全が原因の病死とされています。
道長は、晩年に糖尿病(水を多量に飲むため飲水病と呼ばれた)を患っていたことが記録に残っています。
平安貴族の食事は、糖質が多かったため、糖尿病は珍しい病気ではありませんでした。
道長の兄・道隆も、糖尿病が原因で亡くなったとされています。
道長の死の直前、背中に大きな腫れ物ができ、寝込んだといいます。
この腫れ物は、糖尿病の合併症である皮膚感染症と考えられています。
腫れ物が原因で、多臓器不全を起こして亡くなったと考えられています。
なお、道長の死の直前、平安京では感染症である【はしか】が流行していました。
そのため、赤斑瘡に感染したことが死因であるという説もあります。
しかし、道長の死の際には、赤斑瘡の症状は見られなかったため、この説は否定する声も上がっています。
背中の腫れ物という症状から、癌で亡くなったという説もあります
道長は晩年、健康問題に悩まされていました。
糖尿病からくる視力低下で、ほとんど見えなくなっていたともいわれています。
さらには、胸の病気(心臓神経症)で、発作が起こると声を上げるほど苦しんだとされています。
藤原道長が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1028年1月3日(万寿4年12月4日)、享年62歳
藤原道長の子孫の現在
【結論】藤原道長の子孫には、現代において元内閣総理大臣・細川護煕という人物がいる
元内閣総理大臣の細川護煕さんは、藤原道長の子孫にあたられます。
また、明治神宮の宮司・九条道成さんは、藤原道長と血のつながっている子孫です。
藤原道長の子孫たちは、その後、五摂家という5つの家に分裂しました。
- 近衛家
- 九条家
- 二条家
- 一条家
- 鷹司家
の5つの家です。
そのうちの一つである九条家出身の九条道成さんは、藤原道長と直接血のつながった子孫です。
それだけではなく、九条道成さんは、藤原道長の先祖である中臣鎌足(藤原鎌足)とも、直接血のつながった子孫にあたります。
それともう1人、藤原道長の子孫として有名なお方が、現代におられます。
現在の天皇陛下も、藤原道長の子孫なのです。
実は、藤原道長の子孫は、日本中にたくさんいると考えられます。
道長の先祖である中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫は、苗字に「藤」の字が入っているといいます。
伊藤さんや斎藤さんも、中臣鎌足の子孫かもしれません。
そんな中臣鎌足の子孫である藤原道長のそのまた子孫も、日本中いろいろなところにいる可能性があります。
また、これは余談ですが、関白就任からわずか7日で謎の死を遂げた藤原道長の兄・道兼の子孫は、元寇で奮戦したり、戦国時代に【奇蹟の武人】などと呼ばれ、北関東を制覇した猛将を多数輩出した【宇都宮氏】であるといわれています。
→→→→→【藤原道兼の死因と子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら
【藤原道長の生涯年表】
西暦 | 年号 | 出来事 |
---|---|---|
966年 | 康保3年 | 藤原道長が、藤原兼家の五男として生まれる |
988年 | 永延2年 | 権中納言に任じられる |
990年 | 正暦元年 | 父・兼家が死去し、長兄・道隆が摂政に就任 |
991年 | 正暦2年 | 権大納言に叙される |
995年 | 長徳元年 | 長兄・道隆と次兄・道兼が死去し、摂政を継ぐ |
996年 | 長徳2年 | 長徳の変が勃発!道長のライバル藤原伊周・隆家兄弟が左遷 |
999年 | 長保元年 | 道長の長女・彰子が一条天皇に入内する |
1000年 | 長保2年 | 長女・彰子が皇后(号は中宮)となる |
1008年 | 寛弘5年 | 長女・彰子が、のちの後一条天皇を出産 |
1009年 | 寛弘6年 | 長女・彰子が、のちの後朱雀天皇を出産 |
1010年 | 寛弘7年 | 次女・姸子が、三条天皇に入内する |
1011年 | 寛仁5年 | 一条天皇が亡くなり、三条天皇が即位 |
1016年 | 長和5年 | 道長の孫・後一条天皇が即位。道長は摂政に就任 |
1017年 | 寛仁元年 | 太政大臣に就任 |
1018年 | 寛仁2年 | 娘・威子が後一条天皇の中宮となり、「望月の歌」を詠んでいる。太政大臣辞任 |
1019年 | 寛仁3年 | 出家 |
1028年 | 万寿3年 |
死去(享年62歳) |
藤原道長が【残した有名な歌】とその意味を解説
【結論】藤原道長が残した言葉は
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」
です
藤原道長は、1018年に三女・藤原威子を後一条天皇の中宮つまり妻として送り出したときに、この歌を詠んだといわれています。
道長は三女・威子を天皇の妻としたこのとき、一家三后を成し遂げたのです
つまり娘たち3人を、天皇の妻である皇后・中宮としたということです。
これは前代未聞の偉業でした。
道長が詠んだという「望月の歌」の意味は、以下のとおりです。
「この世はまるで私のためにあるようなものだ。まるで満月のように、何も足りないものはない」
藤原道長の最期に残した言葉は不明です。
ただ、道長は亡くなる直前、念仏を唱えていたといわれています。
自分の死を悟った藤原道長は、法成寺の九体阿弥陀堂に入って、九体の阿弥陀如来像の手と自分の手を糸でつないだといいます。
そしてお釈迦さまの最期と同じく、北に枕を向けて、西を向いて横たわったのです。
僧侶に経を唱えさせ、自分も念仏を唱え、極楽浄土へ行くことを願い、祈りながら亡くなったのでした。
藤原道長の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原道長の死後、後三条天皇の即位という事件が起こりました。
藤原道長の死後、道長の孫でありながら、藤原氏と関係がうすい後三条天皇が即位しています。
この後三条天皇が、道長から始まった藤原氏の栄華を終わらせることになります。
道長が栄華を極めたのは、娘を天皇の妃(妻)として、生まれた孫を天皇とすることで、その後ろ盾になって政治を動かすことができたためです。
しかし道長あとをついだ子・藤原頼通は、娘を後冷泉天皇に嫁がせたものの、子供に恵まれませんでした。
そのため、藤原氏と関係が悪かった後三条天皇は、即位すると、藤原氏の力を削ぎ落とすような政策を実行していくのです。
その一つが【荘園整理令】です。
荘園とは、簡単にいえば、私有地のことです。
藤原氏は、莫大な荘園をもっていて、それが財力の源でした。
ところが後三条天皇は、荘園整理令で、藤原氏の荘園の多くを没収してしまうのです。
藤原氏はこれにより、多大な損害を受けたのです。
さらに、後三条天皇が亡くなると、その子である白河法皇が、院政と呼ばれる政治方法で、権力を独占します。
【サイコロ・鴨川・山法師】この3つ以外は、すべて私の思うがままだ
白河法皇は、こんな言葉を口にするほど、院政で絶大な権力を持ったといわれています。
この言葉は「天下三不如意」と呼ばれています。
それはまるで、藤原道長の「望月の歌」のような、栄華を誇る名言として歴史に残っています。
こうして藤原氏の栄華は、後三条天皇の政治と、白河法皇の院政で、終わりをむかえるのでした。
その白河法皇の隠し子と噂された平清盛の息子・平重盛は、紫式部の血を引く子孫です。
→→→→→【紫式部の死因と子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら
これも余談ですが、白河法皇の前で「無月の歌」と呼ばれる歌を詠んで、「無月宰相」または「高松宰相」と呼ばれた藤原公定は、藤原道長の栄華を支えた盟友・藤原公任の子孫です。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原道長の『死因』は?
死因は、糖尿病から来る多臓器不全
2,藤原道長が【亡くなった日時】は?
西暦1028年1月3日(万寿4年12月4日)に62歳で亡くなった
3,藤原道長の【最後の様子】とは?
最後の様子は、阿弥陀如来像の手と自分の手を糸でつないだ
4,藤原道長の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」
5,藤原道長の【子孫】とは?
子孫には、現代の元内閣総理大臣・細川護煕さんがいる
6,藤原道長の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、後三条天皇の即位という事件が起こった
以上となります。
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