藤原道綱母の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原道綱母の死因は、病気
- 西暦995年6月2日(長徳元年5月2日)に亡くなった、享年不明。おそらく60歳前後
- 死ぬ前に、病気で苦しんだという記録がある
- 「歎きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」有名な歌を残し、小倉百人一首のひとつに数えられている
- 子孫は、鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経と、その子で5代将軍の藤原頼嗣という子孫がいる
- 死後、長徳の変、という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原道綱母の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原道綱母の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原道綱母の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原道綱母の【死因】と【最後の様子】
藤原道綱母の【死因】
【結論】藤原道綱母の死因は、病気
藤原道綱母の死因ははっきりしません。
しかしおそらく病死だと考えられます。
藤原道綱母は、亡くなる2年ほど前に、病気で苦しんだといわれているのです。
藤原道綱母が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦995年6月2日(長徳元年5月2日)、享年不明。おそらく60歳前後
藤原道綱母の【生涯年表】
藤原道綱母の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
936年頃 | 藤原倫寧の娘として誕生 |
954年 | 藤原兼家の妻となる |
955年 | 藤原道綱を出産 |
968年頃 | 藤原登子と交流 |
969年 | 源高明の北の方愛宮に長歌を贈る |
970年 | 兼家が東三条殿に移り住む |
971年頃 | 兼家への来訪が激減 |
972年 | 兼家の旧妻の娘を引き取り養女にする |
974年 | 『蜻蛉日記』を完成させる |
977年 | 兼家が治部卿に左遷、道綱も土佐権守に左遷 |
978年 | 兼家が右大臣に任官、道綱が元の左衛門佐に戻る |
980年 | 兼家の娘で女御の藤原詮子が円融天皇の第一皇子の懐仁親王(のちの一条天皇)を産む |
986年 | 寛和二年内裏歌合に道綱の歌を代作 |
993年 | この頃、病気で苦しんだという |
995年頃 | 死去 |
996年 | 藤原道綱母の一周忌法事が行われたという |
藤原道綱母の【残した和歌】とその意味を解説
【結論】藤原道綱母が残した和歌は、小倉百人一首の一つで
「歎きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」
です
現代語訳すると以下の通りです。
「嘆きながら、一人で孤独に眠る夜が明けるまで、その時間がどれほど長いか、あなた(夫・藤原兼家)はご存知でしょうか?ご存知ないでしょうね。」
藤原道綱母は、権力者・藤原兼家の妻でした。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/02/藤原兼家-e1708351344277-300x149.jpeg)
藤原兼家
引用元Wikipediaより
夫・兼家には、たくさんの妻がいたといいます。
そして兼家は、藤原道綱母とのあいだに、息子の道綱が産まれた直後から、別の女性のところへ通い始めたのだとか。
そんな夫に対して、藤原道綱母は、この歌を送ったといいます。
道綱母は、蜻蛉日記という作品を残すほどの才女でした。
歌も、夫に大切にされない悲しみが溢れる内容となっています。
晩年は、夫・兼家にかえりみられることもなく、孤独だったといわれています。
藤原道綱母の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原道綱母の子孫には、鎌倉時代の鎌倉幕府4代将軍と5代将軍がいる
道綱母の子孫は、息子の道綱を通じて、鎌倉幕府の4代将軍と5代将軍につながっています。
息子・道綱の男系子孫は、鎌倉時代まで、中流のお公家さんとして続きました。
しかし、断絶してしまっています。
ところが女系子孫は、鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経へとつながっています。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/藤原頼経-300x238.jpeg)
藤原頼経
引用元Wikipediaより
藤原頼経は、藤原道綱母からすると、孫の孫の孫にあたります。
そして藤原頼経は、源頼朝の妹のひ孫にあたります。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2021/04/源頼朝-236x300.jpg)
源頼朝
引用元ウィキペディアより
さらに藤原頼経の息子で、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣も、当然ですが藤原道綱母の子孫です。
この頼経・頼嗣親子は、鎌倉幕府の執権・北条氏と敵対し、鎌倉から追放されて将軍の地位を失っています。
道綱母の血筋は、その後も藤原氏の九条家に引き継がれて、皇室へつながります。
現在の天皇陛下は、藤原道綱母の子孫にあたるお方です。
また、藤原五摂家のひとつである九条家の現当主も、藤原道綱母の血を引く人物です。
くわしくは、藤原道綱のリンク記事で、解説いたしております。
藤原道綱母の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原道綱母の死後、長徳の変、という事件が起こりました。
長徳の変とは、藤原道長の甥で、ライバルでもあった藤原伊周・隆家の兄弟が左遷された事件です。
あるとき、藤原伊周が、愛妾・三の君のもとへいきました。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/03/藤原伊周-228x300.jpeg)
藤原伊周
引用元Wikipediaより
すると、そこに何者かが車に乗って、密かに通っていたのです。
三の君に手を出されたと思って激怒した伊周は、乱暴者の弟・隆家に相談したのです。
すると隆家は、この何者かの車に矢を射かけました。
矢は、車の中にいた人物の袖を射抜いたといいます。
車に乗っていたのは、花山法皇でした。花山法皇とは、出家した花山天皇のことです。
![](https://saigotoshiin.com/wp-content/uploads/2024/01/花山天皇-218x300.jpeg)
花山天皇
引用元Wikipediaより
花山法皇は、伊周の愛妾だった三の君と会っていたわけではありません。
寵愛した藤原忯子を忘れられなかった花山法皇は、その妹である四の君を愛妾としていたのです。
三の君と妹・四の君は一緒に暮らしていたのです。
この事件が原因で藤原道長は、ライバルの伊周と隆家を左遷します。
こうして、道長と伊周の、叔父と甥のあいだで起こった権力闘争は、道長の勝利に終ったのでした。
藤原道綱母の息子である道綱は、その後も異母弟の藤原道長と良好な関係を続けたようです。
道綱の死の間際、道長は異母兄を見舞いしているという記録があるのです。
ところが、才能に乏しかった道綱は、それほど出世できなかったといわれています。(右大臣・藤原実資は、日記で道綱のことを「40代になって自分の名前以外の漢字が読めないやつ」と罵っている)
その後、伊周と隆家の母である高階貴子は、息子の左遷にショックを受けたのか急死します。
伊周と隆家の妹で、一条天皇の后だった藤原定子は、出産直後に亡くなります。
伊周も、没落していく一家を支えられず、亡くなるのでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原道綱母の『死因』は?
死因は、病気
2,藤原道綱母が【亡くなった日時】は?
西暦995年6月2日(長徳元年5月2日)に亡くなった、享年不明。おそらく60歳前後
3,藤原道綱母の【最後の様子】とは?
最後の様子は、夫・兼家にかえりみられず、孤独だったという
4,藤原道綱母の【最期の言葉】とは?
「歎きつつ ひとり寝る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る」有名な歌を残し、小倉百人一首のひとつに数えられている
5,藤原道綱母の【子孫】とは?
子孫は、鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経と、その子で5代将軍の藤原頼嗣
6,藤原道綱母の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、長徳の変、という事件が起こった
以上となります。
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