伊達政宗(だて まさむね)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 伊達政宗の死因は、「食道がん」と「腹膜炎」の合併症。
- 亡くなったのは、1636年6月27日。
- 食欲不振や嚥下困難の症状に見舞われ、江戸の屋敷で亡くなった。
この記事では、伊達政宗の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
伊達政宗の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
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伊達政宗の【死因】と【亡くなった日】
伊達政宗の【死因】
伊達政宗は、食道がんと癌性腹膜炎との合併症で亡くなったといわれています。

伊達政宗
引用元ウィキペディアより
伊達政宗が【亡くなった日】と【享年】
新暦:1636年6月27日
旧暦:寛永13年5月24日
享年:数えで70歳(満68歳)
伊達政宗の【最後の様子】は?
伊達政宗は、江戸在勤中に桜田の上屋敷(藩主と妻子の屋敷)にて病没しました。
政宗は死の少し前から食欲不振や「食べ物を飲み込めなくなる症状」に苦しんだといいます。
食欲不振は「食道がん」の症状、「食べ物を飲み込めなくなる症状」¥は「がんによる腹膜炎」の症状とする見方が有力です。
伊達政宗が亡くなる直前の様子をみてみましょう。
1636年4月20日、政宗は家来とともに江戸へ出発します。
いわゆる「参勤交代」です。
政宗は自らの死期を悟ってか、出発の数日前に「自身の遺体の埋葬場所」を示したといいます。
事実、政宗の予感は的中し、これが最後の参勤交代となりました。
衰弱が酷く、出発後まもなく食事がとれなくなっていたのです。
江戸に到着した後も、政宗の体調が回復することはありませんでした。
政宗を「伊達の親父殿」と慕う3代将軍・徳川家光がお見舞いに訪れますが、そのときには杖をついて休み休み移動する有様だったと伝わっています。

徳川家光
引用元ウィキペディアより
そして、家光の訪問から2日後の5月24日卯の刻(午前6時頃)。
伊達政宗はついに帰らぬ人となりました。
享年70。
政宗の遺体は、行きと同様に大名行列を伴って仙台に運ばれ、その霊魂をまつる「瑞鳳殿(ずいほうでん)」が建立されました。
伊達政宗の【辞世の句】とその意味とは?
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
(明鏡止水の心の月明かりを先導に、先行きの見えぬこの世を照らして行った)
伊達政宗は死に際してこう詠んだといいます。
政宗は自ら「馬上少年過ぐ(馬に乗って若いときを過ごした)……」と言ったように、若かりし日の多くを「馬の上」つまり「戦場」で過ごしました。
その生涯はまさに波乱万丈。
父親が敵に拉致されたのでもろとも射殺したり、小田原北条氏の討伐に遅れて参加したため豊臣秀吉に殺されそうになったり……。
一つ判断を間違えれば布団の上で死ぬことはなかったかもしれません。
しかしそうした「一寸先は闇」の世界を、政宗は「心の月」を頼りに生き抜きました。
類まれな武勇と頭脳、そしてそれを物語る壮絶な過去があればこそ、この歌は燦然と輝くのです。
伊達政宗の【子孫】は、どうなったのか?
仙台藩主や宇和島藩主を務め、政宗の子孫は現在まで続いています。
仙台藩主を世襲した伊達家は、現在34代目の「伊達泰宗」さんが当主を務めています。
伊達泰宗さんは「伊達家伯記念會」の会長として、伊達家にまつわる史料を保存するほか、NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の監修を務めたことで知られています。
また「伊達家の末裔」として知られているのが、お笑いコンビ「サンドウィッチマン」のツッコミ担当・「伊達みきお」さんでしょう。
事実、伊達みきおさんの家系は「二人の伊達政宗」と関係があります。
……「二人の伊達政宗」?
そう思われた方も多いでしょう。
実は「伊達政宗」は、二人いるのです。
一人は皆さんご存知「独眼竜」の伊達政宗。この記事で取り上げている「伊達藤次郎政宗」のことです。
もう一人は彼よりも前の時代、南北朝~室町前期に活躍した
伊達大膳大夫(だいぜんだいぶ)政宗
のことです。
伊達大膳大夫政宗は「伊達家中興の祖」として知られ、独眼竜と呼ばれた藤次郎政宗の名は、この偉大な先祖・大膳大夫政宗からとられました。
伊達みきおさんは、この「大膳大夫政宗」の弟の大條氏の末裔にあたります。
「じゃあ、“サンドの伊達さん”は『独眼竜』の子孫ではないの?」
そんな声が聞こえてきそうですが、ご心配なく。
伊達みきおさんは「独眼竜」の血も受け継いでいます。
というのも大條氏には途中で「独眼竜」の子孫にあたる女性が嫁いでいるのです。
つまり、伊達みきおさんは見方によれば「二人の伊達政宗」の末裔ということになります。
その奇抜な出で立ちや生き様で歴史ファンを楽しませる「独眼竜」に、お茶の間に笑いを巻き起こす「お笑い芸人」。
伊達一族には、人々を魅了する力があるのかもしれませんね。
伊達政宗の【死後に起こった出来事】とは?
伊達家は仙台藩と宇和島藩に分かれ、幕末まで続きます。
伊達政宗は10男8女をもうけたといわれていて、長男・秀宗は宇和島藩主を、次男・忠宗が仙台藩主を務めます。
宇和島藩は、現在の愛媛県宇和島市にあたります。
秀宗(ひでむね)は長男でしたが、側室の子であり、さらには豊臣家とのつながりが強かったため、「徳川家康の江戸幕府には合わない」ため、伊達家を継ぎませんでした。
秀宗の代わりに伊達家の家督を継いだのが、次男の忠宗(ただむね)です。
忠宗は政宗の死をもって伊達家を継ぎ、仙台藩の基礎固めに注力しました。
次男・忠宗は、政宗の陰に隠れてしまっていますが、武芸に秀で頭脳明晰な人物だったようです。
江戸在勤中に大火事があった際には、即座に判断をくだして妻子の安全を確保したうえ、誰よりも早く将軍のもとに家臣を連れてはせ参じたといいます。
伊達家は政宗の死後も、その子孫によってきちんと存続されていったのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,伊達政宗の『死因』は?
【食道がん】と【癌性腹膜炎】
2,伊達政宗が【亡くなった日時】は?
1636年6月27日午前6時頃
3,伊達政宗の【最後の様子】とは?
江戸桜田の伊達家上屋敷にて病没した。
4,伊達政宗の【辞世の句】とは?
「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
5,伊達政宗の【子孫】とは?
現代まで続いている。「伊達みきお」さんは「二人の伊達政宗」の末裔。
6,伊達政宗の【死後に起こった出来事】とは?
政宗の長男・秀宗にはじまる宇和島藩と、次男・忠宗に引き継がれた仙台藩とに分かれ、幕末まで続く。
以上となります。
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