足利直義(あしかが ただよし)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 足利直義の死因は病死とも中毒死ともいわれている。
- 直義は、新暦1352年3月12日、旧暦正平7年2月26日に亡くなった。享年47歳。
- 足利直義の死後も、戦乱は終わらず、足利尊氏は足利直冬や南朝と、死ぬまで戦い続けた
この記事では、足利直義の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
足利直義の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、足利直義の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
足利直義の【死因】と【亡くなった日】
足利直義の【死因】
足利直義の死因は諸説あります。
一般には病死とされていますが、兄・足利尊氏によって暗殺または毒殺されたという説もあります。
毒殺された理由は何?
毒殺されたといわれている理由は、足利直義が、兄・尊氏が頼りにしていた忠臣・高師直を死に追いやったためです。
実は、足利直義が亡くなった日は、直義が死に追いやった高師直が亡くなったちょうど1年後でした。
このことから直義は、忠臣だった高師直の仇を討とうとした兄・足利尊氏に毒殺されたと考えられているのです。
足利直義が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1352年3月12日、
旧暦・正平7年2月26日
享年47歳
足利直義の【最後の様子】は?
足利直義は、実の兄である足利尊氏と室町幕府の権力を争った末に、捕らえられました。
その後、尊氏の部下・高師直を死に追いやった仕返しとして、兄・尊氏に毒殺されたという説があります
1333年(元弘3年/正慶2年)、兄・尊氏が鎌倉幕府の北条氏から離反して、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)方へ寝返ると、直義も兄に従って鎌倉幕府滅亡に貢献。
後醍醐天皇が始めた建武の新政(けんむのしんせい)で設置された鎌倉将軍府のリーダーに就任しました。
直義は、中先代の乱(なかせんだいのらん)で、北条時行(ほうじょう ときゆき)に鎌倉を落とされてしまいましたが、その混乱の中で、どさくさ紛れに後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりよししんのう)を暗殺してしまいます。
護良は足利家を疎んでいて後醍醐とも不仲でした。
時行らに護良親王を奪われたら、政治利用され兼ねません。
そのことを嫌ったために、護良親王を暗殺したと言われており、残酷ながら冷静な判断力があったともいえます。
その後、直義は後醍醐天皇から離反した兄・尊氏と合流。
直義は兄とともに各地を転戦し、楠木正成(くすのきまさしげ)ら後醍醐天皇方の武将を討ち取る活躍を見せ、京都を制圧。室町幕府成立にも貢献します。
尊氏と並んで実務にあたっていた有能な政治家・直義でしたが、足利家の執事を務めていた高師直(こうのもろなお)と対立するようになると、御家騒動に発展。
師直の側についた兄・足利尊氏と対立することになってしまいました。
直義派の讒言(ざんげん)によって、直義は高師直を執事職からの解任に追い込みますが、蜂起した師直に降伏し、出家します。
その後、師直と尊氏が足利直冬(ただふゆ、直義の養子)を討伐するために京都を開けた隙を狙って、直義は幽閉されていた場所から脱出。
なんと直義は、元々は敵であった南朝(後醍醐方)に降伏し、南朝を味方につけて、尊氏・師直に反撃を開始したのです。
直冬討伐から急遽引き返してきた師直・尊氏を倒し、師直の暗殺に成功すると、直義は室町幕府の重役として政務に復帰しますが、尊氏との仲が元に戻ることはありませんでした。
今度は尊氏が南朝に降伏して直義討伐の兵を挙げると、敗れて降伏した直義は幽閉されていたところ、1352年(正平7年)に急死。
『太平記』では黄疸で亡くなったとされていますが、師直が死んだちょうど一周忌であったことから毒殺されたという説もあり、詳しいことは未だわかっていません。
足利直義の【最後の言葉】とその意味とは?
足利直義について、最期の言葉や辞世の句は、伝わっていません。
余談かもしれませんが、真田広之さんが主演で足利尊氏を演じた大河ドラマ「太平記」をご存知でしょうか?
俳優の高嶋政伸さんが、足利直義を演じていたのですが、まったく史実には基づいていないものの、そのとドラマ内での直義の最期の言葉が印象的でした。
兄・足利尊氏の目の前で、直義は毒を飲まされてなくなります。
「よくぞご決意なさいました。
これで良いんじゃ。
兄上は大将軍じゃ。
足利家はこれで安泰じゃ」
血を分けた実の弟を殺してまで、幕府を守ろうとした足利尊氏は、誰にも負けない大将軍である。
もはや自分が死ぬことでしか、室町幕府の分裂をおさえる方法がないと覚悟していた足利直義は、自分を殺害した兄を褒めて亡くなったのでした。
足利直義の【子孫】は、どうなったのか?
足利直義には実子がいませんでしたが、養子・足利直冬を通じて、足利義尊(あしかが よしたか)というひ孫がいたといいます。
直義の養子・直冬は、直義が亡くなったあとも足利尊氏と戦いを繰り返しましたが、敗北。
その後、直冬は消息不明となりました。
直冬の孫つまり直義のひ孫にあたる足利義尊という人物が、赤松満祐(あかまつ みつすけ)という武将とともに、室町幕府に反乱を起こしました。
6代将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐は、足利義尊を旗頭にして、幕府に戦いを挑んだのです。
ところが、赤松満祐と足利義尊は、応仁の乱で有名な猛将・山名宗全に敗北します。赤松満祐は自害。
足利義尊は逃亡途中に船が転覆して溺死したとか、畠山持国という武将に討たれたなどと言い伝えられています。
足利直義の【死後に起こった出来事】とは?
足利直義の死後も、南北朝の動乱や、足利直冬による内乱は続き、尊氏は各地で戦いを続けることとなります。
養父・足利直義を毒殺された直冬は、足利尊氏に戦いを挑んできます。
これに南朝の勢力も介入し、尊氏は両者を的にすることとなります。
尊氏は、なんとか直冬の軍団を追い返したものの、その後も南朝との争いは続き、尊氏は戦乱の最中に病死します。
この南北朝の動乱は、足利尊氏の孫・足利義満の時代になって、ようやく終息するのです。
南朝は北朝へ吸収され、室町幕府の混乱は、一応落ち着きます。
ところがその後、1467年に応仁の乱と呼ばれる11年に及ぶ京都での戦乱が勃発。
これ以降、日本は1590年に豊臣秀吉によって天下統一され、1615年に徳川家康によって平和な時代が到来するまで、100年以上ものあいだ、戦乱がつづくことになるのです。
足利直冬とは、どんな人?
足利直冬は尊氏の息子ながら、尊氏には認知されていませんでした。
それを哀れに思った子のない直義は、直冬を養子に迎え入れました。
つまり、直冬は尊氏からすれば、実子であり同時に義理の甥。
直義からすれば、養子であり実の甥というわけです。
直冬は南朝との戦いで功を挙げましたが、尊氏やそれに近い家来たちは活躍を認めず、戦績に見合った恩賞を授かることができず。
この経緯から直冬は尊氏と仲良くなく、直義に従って実父の尊氏に対して兵を挙げることになります。
中国・九州に地盤を持っていた直冬は、尊氏・師直軍によって直義が出家に追い込まれた際
は救援に向かうことができなかったものの、自身に注意を向けさせて直義の解放の隙をつくり、尊氏・師直を窮地に陥れることに成功しました。
しかし直義と尊氏が再び対立した際に、直冬も挙兵しますが敗北。その間に直義は急死してしまいます。
養父の死後も尊氏と戦い続け、南朝とともに敵対勢力であり続けましたが、尊氏が死ぬ頃には南朝の勢いは衰退し、直冬方の武将も次々に幕府に帰順してしまい、直冬一派は瓦解しました。
長らく消息がわからなくなった直冬ですが、足利義満と和解し、隠棲したとされています。
しかし確証のある史料は残っておらず、死因や最後の様子は分かっていません。
なお6代将軍足利義教(よしのり)が赤松家の反乱によって暗殺された際、直冬の孫が赤松によって担がれましたが、乱の鎮圧に伴って殺され、直冬の血族は断絶しました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,足利直義の『死因』は?
黄疸による病死、もしくは毒殺。
2,足利直義が【亡くなった日時】は?
新暦1352年3月12日、
旧暦正平7年2月26日
享年47歳
3,足利直義の【最後の様子】とは?
兄に従って室町幕府開府に尽力するが、高師直との対立を機に兄とも仲違い。敗れて死去した。
4,足利直義の【最期の言葉】とは?
最期の言葉や辞世の句は残されていない
5,足利直義の【子孫】とは?
直義の養子・直冬を通じて、ひ孫・足利義尊がいる。しかし直義に実子はいなかった
6,足利直義の【死後に起こった出来事】とは?
直義の死後も、南北朝の動乱や、足利直冬との戦いは続いた
7,足利直冬とは、どんな人物?
直冬は、実父尊氏に疎まれたため養父直義に忠節を尽くし、直義の死後も幕府と戦い続けた。
以上となります。
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