豊臣秀頼の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 豊臣秀頼の死因は、自害。
- 亡くなったのは、1615年6月4日(慶長20年5月8日)。
- 大坂城・山里丸内にて、母や家来とともに自害して果てた。
この記事では、豊臣秀頼の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
豊臣秀頼の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
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豊臣秀頼の【死因】と【亡くなった日】
豊臣秀頼の【死因】
豊臣秀頼は大坂夏の陣で徳川家康に敗れ、自害しました。
切腹し、毛利勝永という武将に介錯つまり首を斬られて亡くなったといわれています。
豊臣秀頼が【亡くなった日】と【享年】
新暦:1615年6月4日
旧暦:慶長20年5月8日
享年:数えで23歳(満21歳)
豊臣秀頼の【最後の様子】は?
豊臣秀頼は大坂城を徳川方に包囲されるなか、母・淀殿や家来とともに自害しました。
時は慶長20年5月7日。(1615年6月4日)
戦国最後の戦い「大坂夏の陣」がクライマックスを迎えようとしていました。
江戸幕府をひらき、国内に絶大な権力を誇っていた徳川家康が、豊臣秀頼を倒すべく出陣。
家康は前哨戦を勝ち進み、秀頼の大坂城に迫っていたのです。
前年の「大坂冬の陣」で大坂城の堀を埋め立てられていたため大坂城は防御力を完全に無くしていました。そのため豊臣方は城にこもることもできず、大坂城の南に布陣して、屋外で徳川方と対峙します。
はじめ、戦いを優位に進めたのは豊臣方でした。
豊臣方は浪人の寄せ集めでしたが、それでも獅子奮迅の活躍を見せ徳川方を突き崩します。
とくに真田信繫(幸村)は、敵中突破して徳川家康の本陣に迫りました。
真田信繁は、敵方の総大将を討ち取ることで、戦力の差を覆そうとしたのです。
結局、信繁は家康の首をとること叶わずに死んでしまいますが、その勇姿は
日本一の兵
として今日まで語り継がれています。
さて一時は善戦した豊臣方でしたが、徳川方が態勢を立て直すと、豊臣軍は瞬く間に敗退。
徳川軍が次々と大坂城に突入します。
おまけに城内では裏切り者が出て放火や略奪を開始。
豪華絢爛な大坂城は、たちまち火の海と化しました。
こうしたなか、家臣・大野治長の説得により豊臣秀頼と母・淀殿は、逃走を試みます。
しかし大坂城の曲輪の一つである山里丸に差しかかったところを、徳川軍に包囲されてしまいました。
(曲輪とは、城の区画のこと。「本丸」や「真田丸」も曲輪の一つである)
大野治長は
「自分以下豊臣家の家来たちは責任をとって切腹し、徳川家康の孫の千姫(秀頼の正室)は脱出させるので、殿(秀頼)をお救いください」
と交渉します。
家康から判断を任されたのは、千姫の父・徳川秀忠です。
豊臣秀頼らの間に緊張が走ります。
自らの命は、この家康の息子・秀忠に握られたのですから。
大野治長による助命嘆願から約6時間。
沈黙を破ったのは徳川軍の銃声でした。
それは「豊臣秀頼の助命は受け容れられない」という秀忠からのメッセージだったのです。
交渉決裂を悟った豊臣秀頼や母・淀殿らは自害。
まもなく山里丸には火が放たれ、豊臣氏は猛火のなか滅亡しました。
秀頼のご遺体は、捜索されたものの、徳川軍は発見出来なかったといいます。
しかし昭和になって、秀頼のご遺体と思われる骨が大坂城から発見され、京都・嵐山にあるお寺へ埋葬されたとのだとか。
→→→→→【発見された豊臣秀頼のご遺体のゆくえ】についてくわしくはこちら
豊臣秀頼の【子孫】は、どうなったのか?
豊臣秀頼には子どもがいましたが、子孫を残さず亡くなりました。
秀頼は側室との間に3人(4人ともいわれている)の子どもを設けていたといいます。
- 国松
- 天秀尼
- 求厭
という名前の子供です。
しかし男の子だった国松は、大坂の陣ののち捕まって処刑。
残る二人の娘である天秀尼と求厭は、出家することを条件に助命されました。
とくに天秀尼は、秀頼の正室・千姫が「自分が産んだ子である」と偽ってくれたため、助けられたと伝わっています。
天秀尼はその後、千姫の援助もあって、縁切り寺として名高い鎌倉の東慶寺で生活したとのことです。
秀頼と千姫の2人は、子どもをもたなかったので、豊臣家はまもなく断絶しました。
余談かもしれませんが、秀頼の息子・国松が、木下と名乗って生き延びたという言い伝えが残っています。
なお、千姫は助けだされて徳川家の家臣である本多家に嫁いでいます。
千姫は秀頼と仲が良かったといわれていますが、その胸中はどうだったのでしょうか。
余談ですが、千姫は再婚相手の本多忠刻とのあいだに、勝姫という娘をもうけました。
この勝姫の子孫が、徳川幕府15代目・最後の将軍【徳川慶喜】なのです。
→→→→→【千姫の最期と死因・子孫のゆくえ】についてくわしくはこちら
豊臣秀頼の【辞世の句】とその意味とは?
豊臣秀頼の辞世の句や遺言は伝わっていません。
豊臣秀頼の【死後に起こった出来事】とは?
豊臣家滅亡により、江戸幕府の地盤はますます固くなります。
豊臣秀吉が生きていたころ、徳川家康は秀頼を支える五大老の1人に甘んじていました。
ところが秀吉やその親友である前田利家が亡くなると、野心をあらわにします。
その結果、石田三成との間で関ヶ原の戦いが勃発。
戦後処理で豊臣家の領地を大幅に減らしたことで、徳川家と豊臣家のパワーバランスは逆転したのです。
とはいえ、豊臣家には大坂城と潤沢な資金がありました。
その気になれば反乱分子となる可能性があります。
実際、大坂夏の陣では家康が【死を覚悟するほどの危機】を体験していますから、決して侮れる相手ではなかったのでしょう。
しかしその豊臣家が滅んだのです。
豊臣家に協力した武将もことごとく処理しました。
反乱分子の旗頭となりうる存在とその一味がいなくなったことで、江戸幕府による支配はますます安定していくのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,豊臣秀頼の『死因』は?
【自害】
2,豊臣秀頼が【亡くなった日時】は?
1615年6月4日(慶長20年5月8日)
享年:数えで23歳(満21歳)
3,豊臣秀頼の【最後の様子】とは?
徳川軍に包囲されるなか、大坂城の山里丸で母・淀殿らとともに自害した。
4,豊臣秀頼の【辞世の句】とは?
伝わっていない。
5,豊臣秀頼の【子孫】とは?
秀頼の子はいずれも子孫を残さなかったので豊臣家は断絶した。
6,豊臣秀頼の【死後に起こった出来事】とは?
大坂夏の陣の終結による平和・元和偃武が実現し、江戸幕府の支配が安定に向かう。
以上となります。
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