徳川家茂の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 徳川家茂の死因は、ビタミンB1 不足による脚気。
- 徳川家茂は、1866年(慶応2年)7月20日に亡くなった。享年21歳
- 徳川家茂は、第二次長州征討に出陣し 出陣先の大阪城で死亡
この記事では、徳川家茂の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
徳川家茂の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、徳川家茂の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
徳川家茂の【死因】と【亡くなった日】
徳川家茂の【死因】
徳川家茂の死因は、脚気という病気です。
徳川家茂が【亡くなった日】と【享年】
徳川家茂は、1866年(慶応2年)7月20日に亡くなりました。
享年21歳
徳川家茂の【最後の様子】は?
徳川家茂は、第二次長州征討のため大阪城に出兵、そこを拠点に陣を構え指揮を執りました。
幕末当時、精米技術が向上し白米が登場し、本来玄米には含まれるはずだったビタミンB1が減少、甘い物を好む偏食気味の食生活も災いし、栄養不足からおきる脚気にかかり下肢がむくみ、また夏の暑さも相まって重症化し亡くなりました。
亡くなる3日前の7月17日に一橋慶喜が見舞いに訪れました、
家茂は胸が痛み起き上がれない状態でしたが、気丈にかすれる声で応対したとのことです。
徳川家茂の【最後の言葉】とその意味とは?
徳川家茂自身の辞世の句はありませんでした。
ただし家茂は、最期に家来にたいして遺言として
次期将軍は徳川家達を頼む
と、言い残しました
しかし徳川家達は、当時3歳の子供でした。
そのため、実際には徳川慶喜が後継者として15代将軍に就任したのです。
徳川家茂の正室だった皇女・和宮は、家茂の死を嘆き 自分の心境を句にしたためました。
「空蝉の唐織ころもなにかせん 綾も錦も君ありてこそ」
この句の意味を現代語に致しますと、以下のとおりです
どんなに美しい織物も、あなた(徳川家茂)がいなければ何も意味もない
和宮は、大坂にいくのであれば、京の西陣織を土産にとお願いしたそうです。
家茂はその約束を守り、西陣織を愛する妻のために用意しておいたそうです。
徳川家茂の【子孫】は、どうなったのか?
徳川家茂に血の繋がった子孫はいません。
家茂と皇女和宮との間には、夫婦仲は大変よかったのですが、子供はおりませんでした。
側室も持たず、和宮だけに献身的な愛を捧げています。
これには、妹の和宮を妻にあたえてくれた孝明天皇への、徳川家茂の配慮もあったかと思います。
しかしやはり、家茂の持つ献身的な性格によるものも大きいのではないでしょうか。
徳川家茂の【死後に起こった出来事】とは?
家茂の死後、薩摩藩と長州藩は江戸城無血開城に成功し、江戸時代がおわり明治時代がはじまりました。
公武合体のため、政略結婚を強いられ いやいや江戸に赴いた和宮でしたが、実際に家茂と対面してみると、容姿も性格も良く、すぐさま意気投合したといいます。
結果的に、二人は仲睦まじい結婚生活を送るようになりました。
最初は大奥の天璋院篤姫と、位をめぐっていがみあっておりましたが、だんだんそれも氷解し、天璋院と和宮は、とても良い関係になったといいます。
旧幕府軍は、鳥羽・伏見の戦いで薩長の官軍に敗れ、朝廷の敵、つまり朝敵になりました。
いよいよ江戸城総攻撃が迫ってくる緊迫した状態となり、旧幕府軍の全権を任された勝海舟たちは平和的に解決しようと奔走。
そんな状況下で、和宮もできることはないかと動き、朝廷側に戦争を回避するための説得の書簡を送ったといいます。
さらに和宮は、最後の決戦に挑もうとする幕臣たちを説得することにも力を注ぎました。
これが功を奏し、徳川家は存続を許され、平和的に江戸城を官軍に明け渡しました。
これはひとえに、家茂が和宮の捧げた献身的な愛が、和宮の心を変え、家茂の死後も徳川に留まり、江戸城無血開城のために尽力させる事となったといえるのではないでしょうか。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,徳川家茂の『死因』は?
脚気
2,徳川家茂が【亡くなった日時】は?
1866年(慶応2年)7月20日
享年21歳
3,徳川家茂の【最後の様子】とは?
徳川家茂は、第二次長州征伐のために自ら出兵し、陣中の大阪城にて脚気になり亡くなった。
4,徳川家茂の【最期の言葉】とは?
次期将軍には徳川家達にするように指名するよう言い残す。
5,徳川家茂の【子孫】とは?
家茂と和宮には子供がいなかったため、直接の子孫はいませんでした。
6,徳川家茂の【死後に起こった出来事】とは?
江戸城無血開城のため、妻である和宮が朝廷側との交渉をする役割を担った。
以上となります。
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