MENU

徳川家光の死因と最後をわかりやすく解説!子孫と辞世の句は?

徳川家光(とくがわ いえみつ)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 徳川家光の死因は、脳卒中。
  2. 亡くなったのは、1651年6月8日(慶安4年4月20日)。
  3. 茶碗を鑑賞していたところ卒倒した。

この記事では、徳川家光の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

徳川家光の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

徳川家光の【死因】と【亡くなった日】

徳川家光の【死因】

徳川家光は、高血圧による脳卒中のうそっちゅうで亡くなりました。

気性の激しさが伺えるエピソードが残っていますから、血圧が高くなりやすかったのかもしれません。

徳川家光
引用元ウィキペディアより

徳川家光が【亡くなった日】と【享年】

新暦:1651年6月8日

旧暦:慶安4年4月20日

享年:数えで48歳(満46歳)


スポンサーリンク

徳川家光の【最後の様子】は?

徳川家光は献上品の茶碗を鑑賞していたときに、突然卒倒そっとうつまり倒れたといいます。

翌日、そのまま息をひきとりました。

享年48。

亡くなる前年から病を患い、死の直前には歩行障害がみられたことから、死の原因は脳卒中(のうそっちゅう)といわれています。

家光の葬儀は盛大に行われ、その遺骸は上野の寛永寺から日光山輪王寺へ移されました。

また、堀田正盛らの近臣が、家光に殉死(じゅんし)しています。(殉死とは、亡くなった主君を追って切腹すること。)

徳川家光の【辞世の句】とその意味とは?

徳川家光は、辞世の句を残していないようです。

ただ、

「二世ごんげん(権現)、二世将軍」

「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」

と書いた紙をお守り袋に入れ、持ち歩いていたといいます。

(大)権現というのは、東照大権現(とうしょうだいごんげん)のこと、つまり徳川家光の祖父・徳川家康の神としての称号のことです。

徳川家康
引用元ウィキペディアより

家光には、両親(父・徳川秀忠と母・お江)が弟の忠長ただながをひいきしていたのに対し、家康が口添えしてくれたおかげで将軍になれたという過去があります。

その他、家光は生涯に10回も日光東照宮を訪れたというエピソードもあります。

徳川家光は、祖父・家康をこの上なく尊敬していたようです。


スポンサーリンク

徳川家光の【子孫】は、どうなったのか?

徳川家光の子ども6人のうち、2人が将軍になっています。

家光は女性に興味がなかったことをご存知でしょうか。

当時は男色(男性同士の性愛)が珍しくない時代で、家光もそうした嗜好しこうをもつ1人だったのです。

しかし、家光は幕府の頂点にたつ征夷大将軍です。

いくら血筋を保つための御三家ごさんけという徳川家の分家があるとはいえど、将軍に跡継ぎ(後継者)がいないというのは大問題でした。

そこで、家光の乳母であるお福(春日局)が、一計を案じます。

春日局
引用元ウィキペディアより

次から次へと美女を連れてきて、家光と引き合わせたのです。

すると、家光は女性に興味をもつようになります。

家光は側室を何人もかかえるようになり、子どもも生まれました。

その中でも、長男の竹千代は、第4代将軍・徳川家綱(とくがわいえつな)

三男の徳松は、第5代将軍・徳川綱吉(つなよし)となります。(綱吉は、犬将軍と呼ばれた生類憐れみの令で有名な将軍です。)

若い頃の男色家から一転して家光は、お福の機転で世継ぎを残すことができたのです。

このとき確立された将軍の後宮システムは、大奥(おおおく)と呼ばれています。

徳川家光の【死後に起こった出来事】とは?

家光の死後、江戸幕府は安定期に入り、それまでの政治の方針転換が起こります。

徳川家光は、大名に対して

  • 改易(かいえき・領地などをとりあげて大名を大名でなくすこと)
  • 転封(てんぽう・領地を移動させること)

をしきりに行いました。

全国の大名たちに対して、「領地は将軍が与えているものだ」ということを意識させ、幕府の力を示すためです。

しかし、こうした高圧的なやり方を反省させる出来事がありました。

由井正雪の乱です。

由比正雪の首塚
ウィキペディアより引用

これは、軍学者の由井正雪(ゆい しょうせつ)という人が、家光から家綱への代替わりを狙って、幕府を転覆させようとして失敗した事件。

問題は、由井の共犯者に、「改易」で路頭にまよった牢人(ろうにん)が多数いたこと。(牢人とは仕事を失った武士のこと)

つまり、主君が「改易」されてしまった結果、雇い主を失って貧しい暮らしを強いられた「元・武士」たちの怒りが爆発したのです。

これを受け、第4代将軍・徳川家綱の時代からは「改易」や「転封」の数が激減します。

さらに、武力よりも法制度や儀礼・道徳といった手段で統治していこうという流れが生まれます。

徳川家光の死後、それまでとはうってかわって、少し「優しい」政治が行われるようになったのです。


スポンサーリンク

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,徳川家光の『死因』は?

【脳卒中】

 

2,徳川家光が【亡くなった日時】は?

1651年6月8日(慶安4年4月20日)

享年48

 

3,徳川家光の【最後の様子】とは?

茶器を鑑賞していたところ卒倒した。

 

4,徳川家光の【辞世の句】とは?

とくになし。

 

5,徳川家光の【子孫】とは?

側室との息子であった家綱・綱吉が、2人とも四代目と五代目の将軍になる。

 

6,徳川家光の【死後に起こった出来事】とは?

幕府が、法制度や道徳などで統治する方針に転換する。

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

その他の記事

もしよろしければ、以下にご紹介いたします記事も、合わせてお役立てくださいませ。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次