岩倉具視の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 岩倉具視の死因は、病死。食道がん(咽頭がんという説もあり)だったといわれている。
- 岩倉具視は、明治16年(1883年)7月20日に亡くなった。
- 岩倉具視は、亡くなる間際まで、日本国独自の憲法制定を目指していた。
この記事では、岩倉具視の最期の様子について、ひとめで分かるようにまとめました。
岩倉具視の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、岩倉具視の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
岩倉具視の【死因】と【亡くなった日】
岩倉具視の【死因】
岩倉具視の死因は、病死です。
明治16年(1883年)の5月、京都に滞在していた岩倉は、喉の痛みを訴えます。
これを聞いた明治天皇は、東京帝国大学医学部で教授をしていたドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツに診断を命じました。
この時ベルツは、岩倉が食道がん(咽頭がんという説もあり)にかかっていることを診断。
その結果を本人に伝えました。
これが日本の歴史上、記録に残っている初めての「がん告知」だといわれています。
岩倉具視が【亡くなった日】と【享年】
岩倉具視は、明治16年(1883年)7月20日に亡くなりました。
享年59歳でした。
岩倉具視の【最後の様子】は?
最後の様子
岩倉具視は、明治天皇からの訪問を受け、重篤な状態でありながらも正装をしてお迎えし、亡くなったとのことです。
徳川幕府を討ち倒し、新しい時代を切り開いた公家・岩倉具視が自身の死に直面した際に願っていたことは、日本国独自の憲法制定でした。
明治10年(1877年)に日本最後の内戦・西南戦争が終結。
それ以降、日本国内では武力ではなく、言論の力で政府を動かそうとする国民運動(自由民権運動)が盛んになっており、明治新政府は窮地に立たされていました。
明治16年(1883年)、体調を崩して熱海で療養していた岩倉は、ゆっくりすることもできず、公務に復帰することになります。
6月、京都御所保存計画のため京都に滞在していた岩倉は、とうとう飲食が困難になってしまいました。
ベルツの診察を受け、自身がガンに冒されていることを知った岩倉は、船で東京へ移動し、療養を始めます。
7月5日、岩倉の病が重篤であることを知った明治天皇は、岩倉邸を訪れます。
このとき岩倉は、正装し、人に支えられてではありますが、拝謁することができました。
しかし、7月12日に皇后の訪問を受けた際には、ひざまずくことすらできないほど衰えていました。
そして、7月19日、ついに岩倉は危篤におちいってしまいます。
最後の言葉
岩倉危篤の報を受けた明治天皇は、岩倉邸へ駆けつけます。
岩倉と対面した天皇がその容態を聞くと、岩倉はただ
「陛下の万歳を祈るのみ」
と言って、静かに合掌したといわれています。
これが、天皇への最後の挨拶となりました。
岩倉の臨終を看取ったベルツは
「その鋭くて線の強い死に顔は、生前同人が有していた鉄の意志を十分に具現していた」
と、感慨深げに語っています。
岩倉具視の【最後の言葉】とその意味とは?
岩倉具視には、「辞世の句」というものは残されていません。
最後の言葉といえば、後述いたしますが
「陛下の万歳を祈るのみ」
と言ったのが、確認できる最後の言葉かもしれません。
がん告知された岩倉は、診察した医師・ベルツに「あと数週間だけ命を延ばしてほしい」と訴えたといいます。
なぜなら、参議の伊藤博文(いとう ひろぶみ)に遺言したいという理由でした。
伊藤はその当時、日本国独自の憲法を作成するためヨーロッパに滞在し、憲法の調査を行っていました。
当時は船でしか海外に行く方法がなく、岩倉の容態を連絡したとしても、すぐに帰国することは不可能でした。
ベルツは、なんとか伊藤に面会したいと願う岩倉の迫力に押され、余命が幾ばくもないことを知りながらも、全力を尽くすことを約束します。
明治16年(1883年)7月20日、ベルツは岩倉に最期が近いことを告げます。
すると岩倉は、参議の井上馨(いのうえ かおる)を呼び寄せるよう依頼します。
伊藤博文と苦楽を共にし、親友である井上に、伊藤への遺言を託そうとしたのです。
ベルツは自身の日記の中に
「岩倉公は井上参議に、声が枯れているからと、側近くひざまずくよう促した。
(中略)
そして死までのわずかの時間、遺言を一語一語耳打ちし、苦しそうにしながらもゆっくりと伝えたのであった」
と書き残しています。
7月20日、午前7時45分。岩倉具視はこの世を去ります。
井上に伝えた遺言は、帰国した伊藤に確実に伝達されたはずですが、残念ながら記録には残っていません。
遺言を託された伊藤博文は、岩倉の葬儀も終わった明治16年(1883年)8月に帰国しました。
岩倉具視の【子孫】は、どうなったのか?
岩倉具視には、加山雄三さんや喜多嶋舞さんなど、芸能人として活躍する子孫がいる他、多数の子孫を残しています。
岩倉具視は四男六女と、多くの子どもに恵まれました。
孫・ひ孫・玄孫も多く、政治家、学者、作家・芸能人などの著名人も輩出しています。
俳優の加山雄三さんも、岩倉具視の孫の孫(玄孫)にあたります。
その他にも、大沢樹生さんの元妻・喜多嶋舞さんも、岩倉具視の子孫に当たります。
岩倉具視の【死後に起こった出来事】とは?
亡くなってから5日後の明治16年(1883年)7月25日、岩倉具視の葬儀が執り行われました。
岩倉の葬儀は、国費をもって葬儀が執り行われる「国葬」となりました。
明治11年(1878年)に亡くなった、岩倉と同じく維新の立役者である大久保利通は、「準国葬」という扱いだったため、岩倉が明治政府になって初めての国葬対象者となりました。
生前に岩倉は
「自分の葬儀は、自分の父の葬式にかかった費用(三千円:現在の価値で約6千万円)を超過しないように」
と周囲に伝えていたようでが、実際には三万円(現在の価値で約6億円)かかってしまったそうです。
岩倉が遺言を託したといわれている伊藤博文は、明治18年(1885年)12月に初代内閣総理大臣となり、憲法発布前の下準備に奔走しました。
岩倉の念願だった日本国独自の憲法(大日本帝国憲法)は、明治22年(1889年)、第2代内閣総理大臣・黒田清隆内閣時に発布されました。
このとき伊藤は、憲法作成のために天皇のもとで憲法の審議・調査を行い、天皇に意見を述べる最高機関(枢密院)の議長を務めていました。
伊藤は、旧貴族・旧大名ら(華族)に対し、一般国民を政治に参加させることの大切さを主張したといわれています。
また、維新の功績を称え、岩倉具視は、昭和26年(1951年)から昭和60年(1985年)まで使用されていた五百円札の肖像になりました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,岩倉具視の『死因』は?
岩倉具視の死因は、病死。
食道がん、咽頭がんともわれている。
2,岩倉具視が【亡くなった日時】は?
岩倉具視は、明治16年(1883年)7月20日に亡くなった。
3,岩倉具視の【最後の様子】とは?
岩倉具視は、最期のときまで日本の行く末を案じ、日本国独自の憲法制定を願っていた。
4,岩倉具視の【最期の言葉】とは?
伊藤博文に遺言を残すため、寿命を伸ばしてほしいと意思に伝えたという
5,岩倉具視の【子孫】とは?
芸能人として活躍する加山雄三さんや喜多嶋舞さんがいる
6,岩倉具視の【死後に起こった出来事】とは?
その死後、国葬として葬儀が執り行われた。伊藤博文は初代首相に就任し、大日本帝国憲法が発布された
以上となります。
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