中岡慎太郎の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 中岡慎太郎の死因は、暗殺。京都四条にあった醤油屋・近江屋で何者かに襲撃された。両手・両足を斬られ、右手は切断に近いほどの傷であった。
- 中岡慎太郎は、慶応3年11月17日(1867年12月12日)に亡くなった。
- 中岡慎太郎は、襲撃後奇跡的に一命を取り留め、襲撃の様子を語った。
この記事では、中岡慎太郎の最期の様子について、ひとめで分かるようにまとめました。
中岡慎太郎の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、中岡慎太郎の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
中岡慎太郎の【死因】と【亡くなった日】
中岡慎太郎の【死因】
中岡慎太郎の死因は、暗殺です。
中岡慎太郎は、京都四条にあった醤油商・近江屋を拠点にしていた坂本龍馬を訪問・会談中、何者かに襲撃されました。(近江屋事件)
坂本龍馬は、ほぼ即死。
中岡慎太郎は、両手・両足ほか数十箇所を斬られ重傷だったものの、一命を取り留めました。
しかし、襲撃の2日後に容体が急変し、亡くなりました。
中岡慎太郎が【亡くなった日】と【享年】
中岡慎太郎は、慶応3年11月17日(新暦:1867年12月12日)に亡くなりました。
享年30歳(満29歳)でした。
中岡慎太郎の【最後の様子】と【証言】とは?
近江屋で襲撃された後、瀕死の重傷を負いながらも、中岡慎太郎は、好物の焼き飯(チャーハン)を食べるなど、気力が残っていました。
坂本龍馬は頭部を斬りつけられたためほぼ即死でしたが、生き延びた中岡は、暗殺犯襲撃時の様子について、救助に来た同じ土佐藩(現在の高知県)出身の谷守部(後の谷干城)や、田中顕助(後の田中光顕)らに詳細に語ったといわれています。
中岡が残した証言は、以下のとおりです。
・刺客は最初「十津川(現在の奈良県十津川村)の者でござる。どうぞお目にかかりたい」と言い、2階に上がってきた。
(当時、龍馬が十津川郷士と親しくしていたため、取り次ぎの者も不審に思わなかった)
・2人の男が襲い掛かってきて、1人が「こなくそ!」と斬りつけてきた。
(「こなくそ」とは、伊予(現在の愛媛県)周辺の方言で「このやろう!」などという意味)
・刀が近くになかったため不覚を取り、全身に傷を負ってしまった。
(中岡は両手両足のほか数十箇所を斬られ、右手は皮一枚でつながっているだけで、ほぼ切断された状態になってしまった)
・2人が倒れて動かなくなった後、刺客は「もうよい、もうよい」と言い、そのまま外に出ていった。
・少しして坂本が起き上がり、
「石川、刀は無いか」
「(自分は)脳をやられたからもう駄目だ」
と言って、そのまま息絶えた。
(「石川」とは、当時の中岡慎太郎の変名が「石川清之助」だったため)
・中岡自身は死んだふりをしていたため、止めを刺されずに済んだ。
なお、この事件の犯人については未だに諸説入り乱れています。
近年もっとも有力な説の1つとして、江戸末期に幕府が京都の治安維持を目的に組織した「京都見廻組」の佐々木只三郎、今井信郎ら計7人が犯行に及んだのではないかといわれています。
そのほかにも、証言にあった伊予の方言や、残された刀の鞘などの物証から、新選組の原田左之助が実行犯だったという「新選組犯行説」も説の1つです。
中岡慎太郎の【最期の言葉】とその意味とは?
暗殺されてしまったため、中岡慎太郎の辞世の句はありません。
しかし、死の寸前、中岡はいくつかの遺言を残しています。
「我が為に岩倉卿に告げて欲しい。王政復古のこと、一にかかって卿の御力に依るのみである」
(私のためだと思って岩倉様にお伝えしてほしい。王政復古のこと、ひとえに(岩倉)卿のお力に頼るのみです)
「速やかに討幕の挙を決行されよ。後れを取れば、却って敵のために逆襲せられるであろう。必ず同志の奮起を望む」
(すぐに倒幕のため挙兵せよ。遅れをとれば、敵(幕府)に逆襲されてしまうであろう。同志たちが必ずや立ち上がってくれることを、私は願う。)
中岡、坂本両名の訃報を聞いた公家の岩倉具視は
「自分の片腕をもがれた」
と、その死を嘆き悲しみました。
岩倉は、大久保一蔵(後の大久保利通)に宛てた手紙にも
「この恨み必ず晴らしてやる」
と書いています。
このことからも、岩倉具視がいかに中岡慎太郎を信頼していたのかがうかがえます。
中岡慎太郎の【子孫】は、どうなったのか?
中岡慎太郎の直系の子孫はいません。
中岡は安政4年(1857年)、野友村(現在の高知県北川村)の庄屋・利岡彦次郎の長女・兼と結婚しました
中岡19歳、兼は15歳でした。
結婚から4年後。
中岡は、土佐藩士・武市半平太が結成した「土佐勤王党」に所属し、志士としての活動を本格化させていきます。
その後、中岡は土佐藩を脱藩。
長州藩(現在の山口県)へ渡っています。
夫婦は結婚後わずか数年で別れ、その後も会うことはありませんでした。
妻の兼について詳しい資料は残っていません。
しかし、兼は中岡の死後も「中岡兼」と名乗り、57歳で亡くなったといわれています。
中岡の死後は、中岡の甥(姉・京の息子)・照行が養子となり、中岡家を継いでいます。
また中岡の姉・縫の夫で、尊王攘夷運動家だった川島総次の末裔に、お笑い芸人の劇団ひとり(本名・川島省吾)さんがいます。
中岡慎太郎の【死後に起こった出来事】とは?
中岡慎太郎の死後、時代は大きく動いていきました。
日本はその後、鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争によって江戸幕府が消滅。(明治維新)
明治新政府によって日本が支配される新しい体制へと移り変わるのでした。
第15代将軍・徳川慶喜は、朝廷に政権を返上(大政奉還)しましたが、返上後も徳川幕府の力は大きいものでした。
その徳川幕府を廃絶し、幕府に処罰された人々を許すため、公家の岩倉具視は、中岡が託した
「幕府を廃止し、天皇が政治を行う体制を復活させる”王政復古”」
を宣言。
新しい政治体制を発表しました。
新政府の会議(小御所会議)では、徳川慶喜の今後の扱いについて、政治からの完全排除を考える岩倉具視と、徳川家だけに犠牲を求めるのはいかがなものかと考える前土佐藩主・山内容堂が激しく対立します。
しかし、この対立を耳にした西郷隆盛が岩倉に
「ただ、ひと匕首あるのみ」
(短刀一本で相手を刺すくらいの覚悟と気迫で臨め)
と言ったのを聞き、暗殺を恐れた山内容堂は、沈黙してしまいます。
結果、徳川慶喜は新政府の政治から排除されることになってしまいました。
徳川慶喜は、新政府との対立を避けるため京都の二条城を離れ、大阪城に入っていました。
一方、武力による幕府の討伐にこだわる薩摩藩(現在の鹿児島県)は挑発を続け、徳川慶喜の処遇に不満をもっていた旧幕臣たちと、ついに京都の鳥羽・伏見で激突することになります。(鳥羽・伏見の戦い)
この鳥羽・伏見の戦いから、1年半に及ぶ内戦・戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,中岡慎太郎の『死因』は?
中岡慎太郎の死因は、暗殺。
坂本龍馬との会談中、何者かによって襲撃された。
2,中岡慎太郎が【亡くなった日時】は?
中岡慎太郎は、慶応3年11月17日(新暦:1867年12月12日)に亡くなった。
3,中岡慎太郎の【最後の様子】とは?
中岡慎太郎は、襲撃され十箇所以上斬り付けられる重傷を負ったものの、奇跡的に一命を取り留め、襲撃の様子を語り残した。
4,中岡慎太郎の【最期の言葉】とは?
「我が為に岩倉卿に告げて欲しい。王政復古のこと、一にかかって卿の御力に依るのみである」
「速やかに討幕の挙を決行されよ。後れを取れば、却って敵のために逆襲せられるであろう。必ず同志の奮起を望む」
5,中岡慎太郎の【子孫】とは?
子孫はいない
6,中岡慎太郎の【死後に起こった出来事】とは?
死後、戊辰戦争が起こって江戸幕府が消滅し、日本は明治新政府が支配することとなる
以上となります。
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