木戸孝允(桂小五郎)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 木戸孝允(桂小五郎)の死因は、病死。病名は不明。胃がん、大腸がんの肝臓転移、急性心不全などといわれている。
- 木戸は、明治10年(1877年)5月26日に亡くなった。享年45歳(満43歳)。
- 亡くなる間際まで、西南戦争を起こした盟友・西郷隆盛を気にかけていた。
この記事では、木戸孝允(桂小五郎)の最期の様子について、ひとめで分かるようにまとめました。
木戸孝允の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、木戸孝允の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
木戸孝允の【死因】と【亡くなった日】
木戸孝允の【死因】
木戸孝允は、病死であることはわかっているものの、病名がはっきりとしていません。
現在いわれているのは、
- 【胃がん】
- 【大腸がんの肝臓転移】
- 【急性心不全】
などです。
木戸孝允を診察した明治政府のお雇いドイツ人医師ウィルヘルム・シュルツが
「極めて難治の胃病」
と診断したことが『明治天皇紀』に記されています。
これを根拠に死因は「胃がん説」が広まりました。
木戸と同じ長州藩出身の軍人・三浦梧楼(ごろう)は、大正14年(1925年)出版の自身の回顧録で
「(木戸は)全く胃癌にて死去した」
と書き残しています。
また、令和2年(2020年)には『木戸顧問容体』と題した診断書が古書店で発見されました。
明治10年(1877年)5月21日に、天皇の侍医を務めていた3人の医師の連名で書かれた診断書でした。
そこには
「肝部ノ腫脹(しゅちょう)ハ弥(いよいよ)増大シ」
と、肝臓の腫瘍の悪化が記され
「遂ニ危険ニ進ミ不容易(よういならざる)容体」
とも書かれていました。
膿と血が混じった便が出ていたことも記されていました。
木戸が、明治9年(1876年)夏頃から下痢が続いていると日記に書き残していることと併せ、死因は「大腸がんの肝臓転移」ともいわれています。
1日に9本抜歯したこともあるなど、長年歯痛に悩まされてきた木戸。
明治4年(1871年)には、義歯(入れ歯)の製作を依頼しました。
これ以降、重い胃腸障害に悩まされ、不眠症、神経衰弱となり、急性心不全で亡くなったのではないかという説も存在します。
木戸孝允が【亡くなった日】と【享年】
明治10年(1877年)5月26日に、京都で亡くなりました。
享年45歳(満43歳)。
木戸孝允の【最後の言葉】とその意味とは?
木戸孝允の最期の言葉は、
「西郷もまた大抵にせんか、予今自ら赴きて之を説諭すべし」
(西郷もいいかげんにしないか、私が赴いてそう諭してやろう)
でした。
意識が朦朧とする中、木戸が残した言葉は、自身のことでも、家族のことでもなく、ともに混沌とした時代を駆け抜け、新しい世を作り上げた西郷隆盛と、命がけで立ち上げた新政府の行末を心配する言葉だったといわれています。
くわしくは後述しますが、木戸孝允は西郷隆盛を救おうとしていたのではないでしょうか。
木戸孝允の【最後の様子】は?
木戸孝允は、盟友・大久保利通に手を握られながら亡くなりました。
木戸は、西南戦争を起こした西郷隆盛を説得に向かうつもりだったのです。
明治の世になってから数年のうちに、新政府はあらゆる「武士の特権」を士族(旧武士)から取り上げていきました。
手始めに、各藩が所有していた土地(版)と人民(籍)を、全国の大名から返還させ、土地と人民は各藩のものではなく、明治政府のものとしました。(版籍奉還)
その際、各藩の旧藩主はその土地の地方長官である「知藩事」として任命し、今まで通り領地の管理を行わせました。
明治4年(1871年)には、藩をすべて廃止し、府と県に統廃合。
知藩事も廃止しました。(廃藩置県)
その後、明治政府から武士に与えられる給与であった秩禄も廃止(秩禄処分)
さらには皇族、政府の役人、軍人、警察官以外の者が刀を持つことを禁止しました。(廃刀令)
そんな新政府に対して、士族たちは不満を持ちはじめていました。
そのころの木戸は、公家・岩倉具視を全権大使とした岩倉使節団の副使として、大久保利通らとともに欧米視察に出かけており、日本を離れていました。
国内では西郷隆盛らが、いまだ鎖国を続ける朝鮮半島を、武力を使ってでも開国させるべきだと主張していました。(征韓論)
しかし、ちょうど欧米諸国の視察から帰国した大久保利通らに、国内の改革、近代化を優先するべきだと反対され、征韓論は実現しませんでした。
怒った西郷や、江藤新平、板垣退助らは政府を辞めて、故郷へ帰ってしまいました。(明治六年の政変)
明治7年(1874年)には故郷の佐賀県で、江藤新平が挙兵。(佐賀の乱)
明治9年(1876年)には
- 熊本県で「神風連の乱」
- 福岡県で「秋月の乱」
- 山口県で「萩の乱」
が起こるなど、明治政府に不満をもった士族の反乱が相次ぎました。
そして明治10年(1877年)、鹿児島に下野していた西郷隆盛を指導者とした日本最後の内戦・西南戦争が勃発します。
西南戦争の勃発を、木戸は、明治天皇の行幸に従うため、体調不良を我慢して東京から赴いていた京都の地で知ることになります。
木戸は、日に日に悪化する自身の体に、先が長くないことを感じていたのか、
「どうせ死ぬならば、西郷を説得して、討たれるなら大往生」
と、西郷討伐の総大将として名乗りをあげたといわれています。
もしかすると
「自分以外に西郷を救えるものはいない」
と考えていたのかもしれません。
しかし、病は木戸本人の想像より悪化しており、5月の始め頃には日記も書けなくなっています。
そして、京都から出ることなく、見舞いにきた大久保利通に手を握られながら亡くなりました。
西郷隆盛については、以下のリンク記事で、更に詳しく解説しております。
木戸孝允の【子孫】は、どうなったのか?
木戸孝允と妻・松子(元京都三本木の芸妓・幾松)との間に子どもはいませんでした。
そのため、木戸の妹である治子が嫁いだ来原家から、治子と来原良蔵の次男・正二郎を養嗣子に迎えます。
正二郎は、木戸が亡くなった後、侯爵に叙せられましたが、急逝。
来原家の長男・孝正が侯爵木戸家を継承しました。
木戸孝正は、木戸孝允の長女・好子を妻としましたが、新婦は早世(木戸孝允の直系は断絶)、山尾庸三の娘・寿栄子を後妻に迎え、幸一が誕生しました。
侯爵・木戸幸一は、長州閥の御曹司として内務大臣などを経て内大臣に就任、天皇側近として宮廷政治を取り仕切り、東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与しました。
木戸孝允の【死後に起こった出来事】とは?
木戸孝允の死から約4ヶ月後。
木戸が死の間際においても心配し続けた西郷隆盛も、鹿児島において自刃。
西南戦争が終わりました。
西南戦争の終結後、不平士族の反対運動は、反乱に加担しなかった板垣退助らを中心に、国会開設や憲法制定を要求する自由民権運動へと形を変えていきます。
また、西南戦争において、新政府軍は圧倒的だった兵力を生かせず、西郷軍と同等の戦死者数、戦傷者を発生させました。
新政府軍の軍事的な弱さを露呈する結果ともなり、その後の富国強兵政策の礎になりました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,木戸孝允の『死因』は?
- 【胃がん】
- 【大腸がんの肝臓転移】
- 【急性心不全】
2,木戸孝允が【亡くなった日時】は?
明治10年(1877年)5月26日に、京都で亡くなりました。
享年45歳(満43歳)。
3,木戸孝允の【最後の様子】とは?
木戸孝允は、盟友・大久保利通に手を握られながら亡くなりました。
4,木戸孝允の【最期の言葉】とは?
西郷もまた大抵にせんか、予今自ら赴きて之を説諭すべし
5,木戸孝允の【子孫】とは?
木戸孝允に子供はいなかった。
6,木戸孝允の【死後に起こった出来事】とは?
木戸の死後、西郷隆盛は戦死し、西南戦争は集結した。
以上となります。
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