藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原秀衡の死因は病死。
- 秀衡は、新暦1187年11月30日、旧暦文治3年10月29日に亡くなった。享年66歳。
- 藤原秀衡の死後、息子の藤原泰時は、源頼朝が率いる鎌倉幕府軍に敗れ、滅亡した。
この記事では、藤原秀衡の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原秀衡の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原秀衡の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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藤原秀衡の【死因】と【亡くなった日】
藤原秀衡の【死因】
藤原秀衡の死因は、病死です。
義経と息子たちに奥州藤原氏の未来を託して亡くなりました。
藤原秀衡が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1187年11月30日
旧暦・文治3年10月29日
享年66歳
藤原秀衡の【最後の様子】は?死ぬ前に起こったことを解説
藤原秀衡は、迫りくる源頼朝の驚異を感じながら、二人の息子と源義経に、協力して頼朝に対抗するようにと命じて亡くなりました。
奥州藤原氏3代目当主の藤原秀衡は、1157年に父・基衡(もとひら)から家督を相続しました。
京では保元・平治の乱を経て、平清盛(たいらの きよもり)が急成長している頃でしたが、秀衡は中央に負けないほどの独自の力を持っていました。
東北と京都の地理的な距離の問題があったため独立することができたことに加え、馬や金の交易によってもたらされた経済力があったからです。
また中央社会では、奥州の人々を
「蝦夷」(えぞ、二字とも蔑視の意味を持つ)
と呼んで蔑む文化が残っており、秀衡はこれを嫌っていたために、中央と一定の距離を保ち続けたとも言われています。
そして、京都で平家に捕らわれ、そこから逃げてきた源義経(みなもとの よしつね)を匿います。
義経が平家討伐に立ち上がった際は、後に義経四天王に列せられる
- 佐藤継信(さとう つぐのぶ)
- 佐藤忠信(さとう ただのぶ)
の兄弟をおともにつけ、義経を支援しました。
そして義経の活躍もあって1185年(文治元年)に、壇ノ浦の戦いで、平家は滅びました。
その後、兄であり後に将軍になる頼朝(よりとも)が義経を討伐しようとすると、藤原秀衡は義経を再びかくまい、時の人となっていた頼朝と戦うことを決意しました。
しかし1187年(文治3年)、秀衡は病を患い、亡くなりました。
頼朝と義経の一件で家の未来を憂いていた秀衡は、死の前に息子の
- 藤原国衡(くにひら)
- 藤原泰衡(やすひら)
- 源義経(よしつね)
の3人に起請文を書かせました。
義経を主君とし、兄弟で力を合わせて義経を守るように起請文で誓わせ、秀衡は没したのです。
藤原秀衡の【最期の言葉】とその意味とは?
「国衡、泰衡は、源義経を主君として、三人一味の結束を持って、源頼朝の攻撃に備えよ」
秀衡は、死の間際にこの言葉を遺言して亡くなったといわれています。
当時、平家を滅ぼして東北を除く日本全てを勢力下においていた頼朝でしたが、東北で100年の栄華を極めた藤原氏を警戒していました。
しかもそこには、宿敵となった実弟・義経がいたのです。
頼朝は、国衡とその弟・泰衡の兄弟仲が悪いことにつけこみ、国衡を裏切らせようと画策していたといいます。
そのため秀衡は、国衡と泰衡の兄弟を仲直りさせて、そこに戦の天才・義経も加えて、頼朝に対抗させようとしたのでした。
藤原秀衡の【子孫】は、どうなったのか?
秀衡の子孫には、東北の戦国大名の南部氏に仕えた武藤氏がいるといわれています。
秀衡の三男・藤原忠衡は、源頼朝に東北を攻められた際に、三人の子供とともに奥州平泉から逃亡。
その子孫は武蔵野国へ移住して、武蔵の藤原、ということで武藤と名乗ったのだとか。
さらに、その子孫は甲斐源氏の武田氏に仕え、同じ甲斐源氏の南部氏が青森県八戸市にある根城へ移住するとそれに同行したといいます。
また、秀衡の6人の息子の中で、唯一頼朝から命を助けられた四男・藤原高衡は、1201年に幕府への謀反を起こして誅殺されています。
ほかにも、藤原秀衡の子孫を自称していたのが、浪岡氏です。
浪岡氏は、娘を北畠顕家という、のちの南朝の有力な公家に嫁がせています。
浪岡氏の娘が産んだ北畠顕家の子は、安東氏を名乗り、その子孫は秋田氏と名前を変えて江戸時代を生き抜いて、明治維新をむかえました。
藤原秀衡の【死後に起こった出来事】とは?
藤原秀衡の死後、100年ものあいだ東北で栄華を極めた奥州藤原氏は、源頼朝の攻撃を受けて滅亡してしまいます。
秀衡は、国衡・泰衡らの息子たちに義経を守るよう言い残していました。
しかし、秀衡の死の翌年、頼朝が4代目当主・藤原泰衡に義経討伐の命令を出すと、泰衡は頼朝の圧力に耐えかね、義経を討つことを決めてしまいました。
そして泰衡は、反対する弟たちを次々と殺害し、義経を討つための軍を派遣します。
義経は頼るあてもなく、衣川館で自害しました。(衣川の戦い)
泰衡は義経の首を鎌倉へ送って恭順の意を示しました。
ところが、頼朝は適当な理由をつけて、最後の敵対勢力である泰衡を討伐するため、奥州に出兵。(奥州合戦)
約束を反故にされた泰衡は、何度も頼朝に恭順を乞いますが、その間に幕府軍と戦っていた国衡は戦死。
泰衡も家来に裏切られて殺されてしまいました。
泰衡の死を以って、4代続いた奥州藤原氏は滅亡し、源頼朝による鎌倉幕府の統治が始まりました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原秀衡の『死因』は?
病死。細かい原因は分かっていない。
2,藤原秀衡が【亡くなった日時】は?
新暦1187年11月30日
旧暦文治3年10月29日
享年66歳
3,藤原秀衡の【最後の様子】とは?
中央社会とは一定の距離を置き、独自の勢力を作り上げた。源義経を匿うが、頼朝と戦う前に病死した。
4,藤原秀衡の【最期の言葉】とは?
「国衡・泰衡・義経は、心を一つにして源頼朝と戦え」
5,藤原秀衡の【子孫】とは?
秀衡の子孫は、三男・忠衡を通じて、武藤氏と名乗って続いたという
6,藤原秀衡の【死後に起こった出来事】とは?
秀衡の死後、泰衡は父と義経を裏切って存命を図ったが、頼朝に裏切られて殺されてしまい、奥州藤原氏は滅亡した。
以上となります。
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