北条泰時(ほうじょう やすとき)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 北条泰時の死因は、病死。
- 泰時は、新暦1242年7月14日、旧暦仁治3年6月15日に亡くなった。享年60歳。
- 北条泰時の死後も、泰時の作った法律・御成敗式目は、600年以上続く武家社会に影響を与え続けた。
この記事では、北条泰時の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
北条泰時の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、北条泰時の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
北条泰時の【死因】と【亡くなった日】
北条泰時の【死因】
北条泰時の死因は病死。
高熱にうなされたといいます。
病名は、赤痢といわれています。
赤痢とは、腹痛と下血をともなう感染症のことです。
北条泰時が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1242年7月14日
旧暦・仁治3年6月15日
享年60歳
北条泰時の【最後の様子】は?死ぬ前に起こったことを解説
泰時は、幕府の政務を積極的に取り仕切っていた矢先に、赤痢(せきり)を患って出家。
まるで平清盛のように高熱で苦しんだ末に亡くなったといいます。
2代執権(しっけん)の北条義時(ほうじょう よしとき)の息子として生まれた泰時は、若い頃から
- 比企能員の乱(ひきよしかずのらん)
- 和田合戦(わだかっせん)
などに参加して経験を積むと、承久の乱(じょうきゅうのらん)では、幕府軍の総大将として上京し戦いました。
1224年(貞応3年)に父・北条義時が亡くなると、跡を継いで第3代執権に就任しました。
義時の遺領を弟妹に多く配分したり、反乱者を張本人以外の人物は許したりと、寛大な人柄を見せ、周囲の信頼を勝ち取っていきます。
一方で、嫡男ではなかった泰時の立場の弱さを表しているという考え方もあります。
承久の乱以降、地頭(土地の管理者)による紛争が相次いでおり、先例にならった裁判だけでは対応しきれなくなってきていました。
そこで泰時は、京都から法律家を招いて教えを乞うと、熱心な勉強の末、独自の法律を完成させました。
これを御成敗式目(ごせいばいしきもく)といい、これは約500年間続く武家社会の基本となる法典となりました。
その後も執権として幕府の政治を陣取り続けていましたが、過労から病気をしたことを機に、1242年(仁治3年)5月に出家します。
(当時は亡くなる前に出家しないと、極楽へは行けないと考えられていた)
しかしその後、赤痢(せきり)をという病気を患い、6月に亡くなりました。
その高熱に苦しむ様子は、まるで平清盛(たいらの きよもり)の最期のようであったと伝わります。
また、泰時が亡くなった6月は
- 北条義時
- 北条政子(まさこ、義時の姉)
- 大江広元(おおえのひろもと)
など、承久の乱に関わった人物が亡くなった月であり、後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)の祟りではないかという噂が広まりました。
北条泰時の【最期の言葉】とその意味とは?
北条泰時には、辞世の句や最期の言葉は伝わっていません。
北条泰時の【子孫】は、どうなったのか?
北条泰時の子孫には、8代目の執権として2度の元寇に立ち向かった北条時宗(ほうじょう ときむね)がいます。
北条家の一族は、その後も子孫へとその血筋を継承させ、最終的には足利尊氏の妻となった赤橋登子を通じて、足利将軍家にもつながっています。
赤橋登子は、鎌倉幕府最期の執権・北条守時の妹なのです。
登子が産んだ足利義詮は、室町幕府の2代将軍となっています。
近年の研究では、戦国武将・北条氏綱の妻が、泰時たち北条家の子孫であったという説があります。
そのため氏綱につづく小田原北条氏の氏康・氏政・氏直の三名は、北条氏の末裔である可能性があるようです。
北条氏の子孫については、以下のリンク記事で、詳しく解説いたしております。
北条泰時の作った【御成敗式目】とは何か?
北条泰時がつくった御成敗式目(ごせいばいしきもく)は、その後の武士の世界のルールブック、つまり「武士とはどのようにあるべきなのか」を記す法律となりました。
御成敗式目という法律をつくったことで有名なのが北条泰時です。
制定当時から
【幕府管轄下の守護・地頭】
と
【朝廷・公家管轄下の国司・郡司】
が並立する複雑な社会で、御成敗式目は一部の公家方にも取り入れられ、泰時の死後も武家社会に多大な影響を及ぼしました。
鎌倉幕府を滅ぼして室町幕府をつくった足利尊氏は、新しい法律を作るのではなく、式目を継承するという形を選びました。
また戦国時代に入ると、各地で大名たちが独自の分国法(ぶんこくほう)という法律を作りましたが、どの分国法も
「御成敗式目に独自の法律を追加する」
という手法でした。
江戸時代に武家諸法度(ぶけしょはっと)という法律ができたことで、御成敗式目は基本法ではなくなるものの、法令として依然有効であり、「式目注釈学」という学問が成立したり、寺子屋で勉強する教材になったりと、多くの人々に親しまれていました。
明治時代に成立した民法にも影響しているといわれている泰時が作った御成敗式目は、現代の私たちにも通じている、700年近く使われ続けているともいえる、素晴らしい法律であるといえるでしょう。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,北条泰時の『死因』は?
病死。高熱にうなされたという。
2,北条泰時が【亡くなった日時】は?
新暦1242年7月14日
旧暦仁治3年6月15日
享年60歳
3,北条泰時の【最後の様子】とは?
幕府の反乱を鎮める武功と、その寛大な性格から多くの御家人の信頼を集めた。御成敗式目を制定するなど武家社会の通念を作ったが、亡くなった際は祟りを囁かれた。
4,北条泰時の【最期の言葉】とは?
辞世の句や最期の言葉は、つたわっていない
5,北条泰時の【子孫】とは?
子孫には、元寇に立ち向かった8代執権・北条時宗がいる
6,北条泰時の死後、泰時がつくった御成敗式目はどうなったのか?
泰時死後も御成敗式目は使われ続けた。江戸時代以降はメインの法律ではなくなったが、依然影響を与え続けた。
以上となります。
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