足利義満(あしかが よしみつ)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 足利義満の死因は、病死とも暗殺とも伝わる。
- 義満は、新暦1408年5月31日、旧暦応永15年5月6日に亡くなった。享年51歳。
- 足利義満の子孫は、権力争いに巻き込まれたり、恐怖政治を敷いてしまったりしていた。そのため義満が作った基盤は子孫には引き継がれなかった。
この記事では、足利義満の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
足利義満の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、足利義満の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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足利義満の【死因】と【亡くなった日】
足利義満の【死因】
足利義満の死因は病死で、流行り病に罹ったものと言われています。
近年は否定されつつありますが、暗殺説も囁かれていました。
足利義満が【亡くなった日】
新暦・1408年5月31日
旧暦・応永15年5月6日
何歳で死んだの?
足利義満は、51歳で亡くなっています
足利義満の【最後の様子】は?
足利義満は、息子・足利義嗣(あしかが よしつぐ)が元服(成人)した直後に、急に亡くなりました。
義満は天皇の位を乗っ取ろうとしたともいわれているのですが、その天皇の位を奪う直前に急死したため、暗殺されたのではないか?と疑われているのです。
後醍醐天皇と足利尊氏の戦いから始まった南北朝の争いが未だ終息していない中で、義満は2代将軍・足利義詮(よしあきら)の息子として生まれました。
義満は10歳の時に父の死によって、征夷大将軍に就任します。
義満は管領・細川頼之(ほそかわ よりゆき)等の優秀な家臣に支えられながら、幕府の基盤を整えますが、反頼之派の家臣に屋敷を囲まれ、頼之を罷免するよう要求される事件が発生します。
これ以降、義満は力を持ちすぎている家臣の力を削ぐことに力を尽くすようになります。
1389年(天授5年/康応元年)、義満は細川頼之の罷免を図った土岐氏の跡目争いにつけ込んでこれを討伐すると、2年後には
「六分一殿(ろくぶのいちどの)」(日本66カ国のうち6分の1にあたる11カ国を支配しているという意味)
と呼ばれる山名氏を挑発して挙兵させ、これを叩きます(明徳の乱)。
1399年(応永6年)に義満は、西国最大勢力の大内氏を討伐し、対抗勢力を全て倒しました。
また1392年(元中9年/明徳3年)には、勢力の衰えた南朝勢力と交渉を重ねると、南朝方の後亀山天皇(ごかめやまてんのう)が、北朝方の後小松天皇(ごこまつてんのう)に位を譲る形で南北朝の統一を達成しました。
将軍の位を息子の義持(よしもち)に譲った後も権力を握り続けた義満は、1395年(応永2年)に最高位の太政大臣に任官されると、征夷大将軍と合わせて、武家社会と公家社会のトップに立ちました。
その後も明に使節を送って勘合貿易(かんごうぼうえき)を開始して経済基盤を作ったり、京都の北山に隠居後の邸宅として金閣寺を建築したりするなど、幕府の権力を高めていきました。
1408年(応永15年)、寵愛していた息子の義嗣(よしつぐ)を、まるで天皇の親族である【親王】のようなやり方で元服(げんぷく・成人式)をさせます。
義満は将軍に義持を、天皇に義嗣を据え、自分がその補佐という形をとって幕府体制を完成させようとしていたと言われますが、真偽の程は定かではありません。
しかし義嗣の元服の二日後に病に倒れ、1週間ほどで亡くなってしまいました。金閣寺で亡くなったといわれています。
目指していた天皇・上皇の位まで、あと一歩のところで急に死去してしまったことから、義満が天皇の位を奪うことに危機感を抱いた何者かに暗殺された説も唱えられていました。
しかし近年の研究では、流行病にかかってしまったとする説が有力です。
足利義満の【辞世の句】とその意味とは?
「たのむかな 我がみなもとの 石清水 ながれの末を 神にまかせて」
(我が足利一族のみなもとである源氏の氏神・石清水のお社に、その流れの末はどうなるか神のご意思におまかせして、一心にお祈り申し上げます。)
これは辞世の句ではないようですが、義満は生前に、一族の繁栄を願う歌を残しました。
しかし、その願いも虚しく、その後の室町幕府は混乱を極めることになります。
息子の6代将軍・義教は暗殺され、8代将軍・義政の時代には【応仁の乱】が起こって戦国時代が始まります。
13代・足利義輝は暗殺され、その弟・足利義昭は織田信長に追放されて、室町幕府は滅亡。土台が脆弱であった室町幕府は、義満の時代に栄華を極めたものの、その後は没落の一途をたどったのでした。
足利義満の【子孫】は、どうなったのか?
足利義満には、義持、義嗣のほか、6代将軍の義教(よしのり)がいます。
義持は父・義満と不仲で、理想とする将軍家のあり方も、義満とは全く異なるものでした。
そのため義持は義満の死後、勘合貿易を廃止するなど、義満とは正反対の政治・政策を行うようになります。
そこで義持は義満の寵児・義嗣(よしつぐ)が疎ましくなり、義嗣を政治の表舞台から遠ざけるようになってしまいます。
後に義嗣は、関東の家臣の反乱に巻き込まれる形で命を落としてしまいました。
義持とその子・義量(よしかず)が相次いで亡くなって跡継ぎがいなくなってしまうと、家臣たちは次期将軍を誰にするか、話し合いが行われました。
協議の結果選んだ選定方法が、なんと【くじ引き】。
そこで将軍になったのが義教でしたが、彼は運で将軍になったと甘くみられないために、恐怖政治を敷くようになってしまいます。
義満と同様に有力家臣の勢力を削ぐなど、室町幕府への功績もありましたが、恐怖政治が祟って赤松満祐(あかまつ みつすけ)に暗殺されてしまいました(嘉吉の乱)。
反乱は鎮圧されましたが、将軍が家来に暗殺される一大事は将軍の権威を失墜させることとなり、後に戦国時代のきっかけとなる大乱【応仁の乱】に発展していきます。
その後、室町幕府は義満の頃の権勢を取り戻すことはありませんでした。
室町幕府は、義満の子孫に当たる15代将軍・足利義昭の代で、織田信長によって滅ぼされることになります。
足利義昭はその後、豊臣秀吉に仕え、朝鮮出兵のために九州へ出陣した直後に病死しています。高齢であるにも関わらず、無理して出陣したためといわれています。
義満の子孫は13代将軍・足利義輝などを通じて、現代まで続いているとされています。
足利義満の【死後に起こった出来事】とは?
足利義満の死後、息子の足利義教が暗殺された嘉吉の乱から、11年も続いた応仁の乱まで、室町幕府は弱体化し、日本は混乱を極めることになります。
応仁の乱のあと、室町幕府は日本を力で治めることができなくなり、戦乱の時代・戦国時代が始まります。
1467年に、応仁の乱から戦国時代は始まり、その後、1590年に豊臣秀吉が天下統一を達成するまで、日本は各地の領主が互いに争う内乱状態となります。
1573年、室町幕府は織田信長によって滅亡。
1603年、徳川家康が江戸幕府を開きます。
1615年、徳川家康が大坂夏の陣で、豊臣秀吉の息子・秀頼を滅ぼし、ようやく日本は平和で穏やかな時代をむかえるのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,足利義満の『死因』は?
暗殺説は否定されつつあり、流行り病に罹った事による病死が有力。
2,足利義満が【亡くなった日時】は?
新暦1408年5月31日
旧暦応永15年5月6日
享年51歳
3,足利義満の【最後の様子】とは?
南北朝統一、敵対勢力の排除を果たし、室町幕府の基盤を作り上げたが、体制の完成を目前にして病死してしまった。
死のタイミングができすぎており、暗殺説も唱えられた。
4,足利義満の【辞世の句】とは?
辞世の句は残されていない。
5,足利義満の【子孫】とは?
義満の偏愛の影響で息子同士が争ってしまう。さらにくじ引き将軍の暗殺によってますます権威は失墜してしまった。
6,足利義満の【死後に起こった出来事】とは?
義満の死後、室町幕府は弱体化し、各地で反乱が起こり、ついには応仁の乱が起こって日本は戦国時代へ突入する
以上となります。
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