足利尊氏の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 足利尊氏の死因は背中の腫れ物を原因とする敗血症。
- 尊氏は、新暦1358年6月7日、旧暦天平13/延文3年4月30日に亡くなった。享年54歳。
- 足利尊氏は、戦場でも死を恐れない性格であった。
この記事では、足利尊氏の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
足利尊氏の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、足利尊氏の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
足利尊氏の【死因】と【亡くなった日】
足利尊氏の【死因】
足利尊氏の死因は、背中の腫れ物を原因とする敗血症とされています。
戦争で受けた矢傷から細菌が感染して背中に腫れ物ができてしまい、それがもとで敗血症を引き起こし、亡くなってしまいました。
足利尊氏が【亡くなった日】と【享年】
新暦1358年6月7日
旧暦天平13/延文3年4月30日
享年54歳
足利尊氏は、どこで死んだ?
足利尊氏は、京都にあった尊氏の自宅で亡くなっています。
この邸宅は、当時は京都二条万里小路第と呼ばれていたようです。
その後は、足利尊氏邸・等持寺跡と呼ばれ、現在では碑が建てられています。
尊氏は邸宅で亡くなり、その後この地は【室町幕府発祥の地】とも呼ばれるようになるのです。
現在その碑は、京都の地下鉄・烏丸御池駅から徒歩数分のところにあります。
足利尊氏の【最後の様子】は?
尊氏は南朝との戦争の途中に病気に倒れ、医師による治療や僧侶の祈祷を受けながらも、亡くなったとされています。
足利尊氏は1335年(建武2年)、後醍醐天皇を中心とする建武親政に反旗を翻すと、翌年には後醍醐に廃されていた光明天皇を建て、幕府を開きました(後の北朝)。
しかし後醍醐天皇軍(後の南朝)との戦いは終わらず、幕府は全く安定しないまま南北朝の動乱に突入。
さらに幕府内でも尊氏の弟である直義(ただよし)と、尊氏の側近・高師直(こうの もろなお)が対立する観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる内戦が発生。
その弟の直義が南朝に降伏し、南朝勢力に加わってしまったことにより擾乱は泥沼化してしまいます。
そして尊氏は南朝や弟と戦っている中でそして九州の南朝勢力と戦う準備を進めていた中、癰(よう)と呼ばれる悪性の腫瘍が背中にできてしまい、遠征を断念。
名医を呼んで様々な薬を投与させたり、高僧に加持祈祷をさせたりとあらゆる手段を講じましたが、治療の甲斐なく1358年(天平13年/延文3年)にこの世を去りました。
足利尊氏の性格とは?死を恐れない性格だった
足利尊氏は、死ぬことに恐怖を感じない性格だったといわれています。
尊氏の性格について、尊氏の友人であり、室町幕府の宗教政策に深く携わっていた夢窓疎石(むそうそせき)が証言を残しています。
尊氏を
「心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。」
と評価しています。
尊氏は危機に直面すると微笑むクセがありました。矢の飛び交う戦場で家臣が身を守るよう進言しても、尊氏は笑って取り合わなかったと言います。
また『源威集』の著者も
「たとえ鬼神が近づいてきても、全く動揺する気配がない」
と尊氏の胆力を称賛しています。
また、尊氏に敗れて軟禁されていた後醍醐天皇が脱出し、吉野という地に逃れた際、焦る家臣たちの前で
「警固し続けるのは難しく煩わしい。とはいえ遠国に流すのは畏れ多い。帝御自身で脱出したのならもっけの幸い。」
と言い放ちました。
いつ後醍醐が残党を結集して攻めてくるかもわからない時に、狼狽えることなく「もっけの幸い」と言い放つ尊氏に、家臣たちは度量の大きさを感じ、落ち着きを取り戻しました。
一方で、尊氏が死を恐れないのは豪胆さのためではなく、双極性障害を抱えていたためである、と言う説があります。
北条時行が起こした中先代の乱の鎮圧のために京から鎌倉へ向かった尊氏でしたが、鎮圧後の後醍醐の帰京命令を無視したことが謀反とみなされて尊氏追討軍が出されてしまいます。
これに際し、後醍醐の命令を無視したにも関わらず、一転して尊氏は後醍醐に恭順し、出家・引退すると、反旗とは矛盾したことを言い出します。
このような行動の矛盾が、双極性障害の一つの根拠とされています。
また、尊氏は戦いに敗れるとすぐに自害しようとする人だったと伝わっています。
合戦で苦戦に陥ると、突然
「腹を切ろう」
と言い出し、家臣全員で切腹を止めると言うことがよくありました。
このような奇行は尊氏に限らず、尊氏の父、貞氏(さだうじ)には発狂歴があり、祖父の家時(いえとき)は天下を取れないことを嘆き、突然自害してしまいました。
尊氏の子孫を見ても、暴君として恐れられて暗殺された義教(よしのり)や、文化人として優れていたものの政治に全く興味を示さなかった義政(よしまさ)など、足利一族には変わった人が多いと言えます。
尊氏は死をも恐れない豪胆で度量の大きい人物でしたが、一方で双極性障害に苦しんでいたためという説もあり、確信的なことはまだわかっていません。
足利尊氏の子孫はその後どうなったの?
足利尊氏の死後、その子孫は室町幕府最後の将軍・足利義昭まで将軍職を継承し、21世紀の現在でも、足利浩平さんという方に引き継がれて続いております。
15代将軍・足利義昭は、織田信長によって京都から追放され、室町幕府は滅亡。
その後も足利家は各系統に分かれて引き継がれました。
江戸時代は、喜連川藩という藩に、足利家の血筋は継承され続けました。
1983年に足利家当主・足利惇氏さんが亡くなると、その甥の足利浩平さんが当主の座を引き継ぎ、今も名門・足利家は続いております。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,足利尊氏の『死因』は?
感染症。つまり敗血症により亡くなった。
2,足利尊氏が【亡くなった日時】は?
新暦1358年6月7日
旧暦天平13/延文3年4月30日
享年54歳
3,足利尊氏の【最後の様子】とは?
南北朝の戦いに加えて幕府内の権力争いも勃発し戦いに明け暮れる中、戦闘中に受けた矢傷から細菌感染し、できた背中の腫れ物が原因となって敗血症を発症し、死亡。
南北朝の動乱は、尊氏の孫に当たる三代将軍・足利義満の時代まで続くことになる
4,足利尊氏の【性格】とは?
死を恐れない性格であったと伝わるが、豪胆な性格によるというよりは、双極性障害のためにエキセントリックな行動を取っていたと言う説がある。
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (13件)
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腹を切ろうってのはパフォーマンスで
部下に死ぬくらいなら最後まで抗おうと自分で悟らせる為でしょう
双極性障害じゃなくて二軸思考とリスケがうまいのでしょう
さっき言ったことを意味なく忠実に守ろうとすれば激変に対応できない
足利尊氏という男は自在に変化することのできる柔軟な思考の持ち主のように思えます
おそらく味方も欺き本音も隠し未来も予見しいつも本音と関係ない姿を演じていたのでしょう
こんばんは
この度は当サイトへおこしくださいましてありがとうございます
お言葉ごもっともです。
足利尊氏は、パフォーマンスで周囲の奮起を促したのかもしれません。
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失礼いたします