吉田松陰の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 吉田松陰の死因は、刑死。老中暗殺計画への関与が露見したため。
- 松陰は、安政6年10月27日(1859年11月21日)に亡くなった。
- 松陰は、刑が執行される直前まで落ち着き、堂々としていた。
この記事では、吉田松陰の最期の様子について、ひとめで分かるようにまとめました。
吉田松陰の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、吉田松陰の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
吉田松陰の【死因】と【亡くなった日】
吉田松陰の【死因】
吉田松陰の死因は、刑死(斬首刑)です。
処刑したのは、処刑人として有名な山田浅右衛門です。
どこで死んだの?
処刑された場所は、天馬町牢屋敷といわれています。
現在は、東京都中央区立十思公園になっています。
吉田松陰が【亡くなった日】と【享年】
安政6年10月27日(1859年11月21日)に、江戸の伝馬町牢屋敷で亡くなりました。
享年30歳(満29歳)でした。
吉田松陰の【最後の言葉】または【辞世の句】と意味
吉田松陰の辞世の句といわれているものは、3つあります。
①親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん
(子が親の事を想う以上に、親が子を想う気持ちは深いものである。自分の死の知らせををどんな思いで聞くのだろう。)
安政6年(1859年)10月26日、「永訣の書」と呼ばれる、肉親にあてて書かれた別れの手紙の文頭に記されている句です。
この手紙には遺書のような内容が綴られており、家族に宛てた最後の言葉として残されています。
②身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
(私の体は江戸の地で朽ち果てても、私の大和魂という信念だけはこの世に置いておきたいものだ。)
松下村塾の門弟たちに宛てて書かれた5000字に及ぶ遺書「留魂録」に残された句です。
一般的にはこちらが吉田松陰の辞世の句として知られています。
以下の漢詩が、吉田松陰が残した最後の言葉ということになると思います。
③吾今爲國死 死不負君親 悠々天地事 觀照在明神
(私は今、国のために死ぬ。この死は決して主君や親に対し背くことでは何一つない。遥かに広がる天地の間に営まれる悠々と流れる事の中で、私の行ってきたことはすべて国の為に行ってきたことである。そのことは霊験あらたかな神々が必ず見て下さっている。)
松陰が処刑直前、朗々と吟じた漢詩だといわれています。
この漢詩が最後の言葉となるので、実質辞世の句(歌)と言えるかもしれません。
松陰は、この漢詩を吟じた後、同じ牢にいた囚人たちに別れの挨拶をして、刑場へと向かいました。
吉田松陰の【最後の様子】は?
最期まで堂々としていた吉田松陰
吉田松陰は、処刑されるその瞬間まで、堂々としていたといわれています。
死罪の宣告を受けた松陰の様子を目撃した人物の1人に、長州藩の代表として判決の場に立ち会った小幡高政がいます。
小幡はこのときの松陰の様子をこのように語っています。
「髪の毛や髭はぼうぼうと伸びていたが、その眼光は鋭く光りまるで別人のようでした。
その姿には一種の凄味さえ感じました。
死罪を申し渡され「立ちませい!」と役人に促されると、松陰は立ち上がり私のほうを向いて微笑みながら一礼すると、潜り戸から出ていきました。
その直後に朗々と漢詩を詠む声が聞こえたのです。<中略>
評定所の役人や護送役人たちは松陰の漢詩に聞き入っていましたが、朗詠が終わると我に返り松陰を駕籠に乗せて伝馬町の獄まで連れて行ったのです」
松陰の最期については、小幡の他にも数人が証言をしています。
そのうちのひとりが、八丁堀同心の吉本平三郎です。
吉本平三郎は松陰の最期を、漢学者の依田学海に語っています。
「奉行が死罪の申し渡しをすると「かしこまりました」とうやうやしく答え、評定所を出るときには、介添えの獄吏に「長い間お世話になりました」とやさしい口調で礼を述べ、さらに処刑される直前に鼻をかんでから、心静かに首を打たれました。
これほど平常心で死んでいった人を見たことはない」
さらに松陰の首を打った第7代山田浅右衛門(首切り浅右衛門)は、松陰の最期をこのように語っています。
「刑場に現れた松陰は実に悠々としていて、役人に「御苦労様」と挨拶をして、姿勢を正して座った。
その堂々とした態度に役人も感嘆していた。
首を打たれる瞬間まで落ち着いていた松陰は、あっぱれであった」
なぜ吉田松陰は処刑されたのか?
松陰は、老中の暗殺を計画したことが露見したため、処刑されました。
松陰は、朝廷の許可を得ないまま、安政5年(1858年)に幕府がアメリカと「日米修好通商条約」を締結したことに怒っていました。
そして、長州藩に、老中暗殺や倒幕を進言しています。(老中とは、幕府トップクラスの重役)
この思想があまりにも危険すぎるとして、藩は、松陰を野山獄に投獄します。
嘉永6年・7年(1853・1854年)に、黒船へ密航を企てた事件以来の投獄でした。
当時、政治の実権を握っていた大老・井伊直弼(いい なおすけ)は、自身の政治に反対する活動家や大名・公家を弾圧していました。(安政の大獄)
安政の大獄で摘発された人物の中に、尊王攘夷運動の急先鋒だった元小浜藩士・梅田雲浜(うめだ うんぴん)という人物がいます。
雲浜は、長州を訪れた際に、吉田松陰を訪ねていました。
雲浜が捕まると、松陰にも2つの容疑がかけられました。
- 勤王家・梅田雲浜と関係しているのではないか
- 御所で見つかった幕府を批判する内容の落とし文が、松陰の筆跡ではないか
幕府最高裁判機関である評定所での取り調べを受けるため、松陰は江戸に送られました。
かけられた容疑は松陰とは関係がなく、取り調べはすぐに終わってしまいました。
しかし、取り調べを受けることを、自身の熱意を幕府に伝えるチャンスだと考えていた松陰は、自ら
「自分は死罪に相当する罪を犯しているが、周囲の者に迷惑がかかるため明かさない」
と、老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)暗殺計画を告白。
この結果、死罪が言い渡され、処刑されてしまいました。
松陰は
「自身が行っている事は正しいのだから、隠し立てする必要はない」
と考えていたようです。
吉田松陰の【子孫】は、どうなったのか?
吉田松陰に、直系の子孫はいません。
松陰は生涯独身でした。
また、2015年の大河ドラマにもなった松陰の妹・文(ふみ)は、はじめは長州藩士・久坂玄瑞(くさか げんずい)に、久坂が禁門の変で自害した後は、同じく長州藩士・楫取素彦(かとり もとひこ)に嫁ぎましたが、久坂との間にも、楫取との間にも子供ができませんでした。
しかし、松陰の兄・民治の家系は続きました。
民治の孫・道助は、「大阪商工会議所」の初代理事長を務めました。
また鳩山一郎内閣では、日ソ交渉の全権顧問を務めており、政治外交でも重要な役割を果たします。
吉田松陰の【死後に起こった出来事】とは?
松陰の死後、長州藩は窮地に立たされます。
松下村塾の塾生で、松陰の義理の弟でもある久坂玄瑞(くさか げんずい)が、同じく塾生だった入江九一(いりえ くいち)らとともに、京都を焼き野原にしてしまいました。(禁門の変)
これ以降、幕府や薩摩藩などと対立し、長州藩は勢いを失っていきます。
また、塾生の1人・吉田稔麿(よしだ としまろ)は、新選組が旅籠・池田屋を襲撃した「池田屋事件」の際に自刃。
奇兵隊を組織した高杉晋作も病死と、「松下村塾四天王」と呼ばれた秀才たちが、相次いで命を落としていきました。
しかし、長州藩藩校・明倫館で松陰の教えを受けた桂小五郎(別名・木戸孝允)が、薩摩と「薩長同盟」を成立させ、その後は一気に倒幕へと突き進みます。
松陰の死から8年後、多くの血を流しながらも、時代は「明治」となりました。
明治になってからも、元塾生の伊藤博文が初代内閣総理大臣になるなど、幕末を生き抜いた元松下村塾塾生たちが活躍していきました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,吉田松陰の『死因』は?
刑死(斬首刑)
2,吉田松陰が【亡くなった日時】は?
安政6年10月27日(1859年11月21日)
享年30歳(満29歳)
3,吉田松陰の【最後の様子】とは?
吉田松陰は、処刑されるその瞬間まで、堂々としていたといわれています。
4,吉田松陰の【最期の言葉】とは?
親思う 心にまさる 親心 今日のおとずれ 何ときくらん
身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
5,吉田松陰の【子孫】とは?
吉田松陰に、直系の子孫はいません。
6,吉田松陰の【死後に起こった出来事】とは?
吉田松陰の死後、長州藩は禁門の変や池田屋事件などで、長州藩は窮地にたたされる
以上となります。
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