北畠顕家(きたばたけ あきいえ)の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 北畠顕家の死因は、戦死。
- 顕家は、新暦1338年6月10日、旧暦延元3/建武5年5月22日に亡くなった。享年21歳。
- 北畠顕家の直系の子孫は諸説あり、はっきりとしたことはわかっていないが、顕家の弟が継いだ北畠家は、伊勢で長年のあいだ国司を務め、繁栄した。
この記事では、北畠顕家の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
北畠顕家の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、北畠顕家の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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北畠顕家の【死因】と【亡くなった日】
北畠顕家の【死因】
北畠顕家の死因は戦死です。
顕家は、足利尊氏の重臣・高師直を相手にした石津の戦いにおいて、落馬したところを討ち取られ、亡くなったといわれています。
北畠顕家が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1338年6月10日
旧暦・延元3/建武5年5月22日
享年21歳。
北畠顕家の【最後の様子】は?
北畠顕家は、石津の戦いでわずか200の兵をひきいて足利尊氏の軍団を戦い、落馬した際に討ち取られてしまいました。
若干21歳で亡くなった北畠顕家は、足利尊氏がもっとも恐れた武将とも、弓の名手であったともいわれています。
顕家の父・北畠親房(ちかふさ)は、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の側近であったため、その息子・顕家は、史上最年少で参議(さんぎ、官職の一つ)に任命されるなど、順調な出世をしていきました。
父のコネがあったとはいえ、幼少の頃から天皇の御前で舞を披露するなどのエピソードが残っており、出世はその類まれな才覚が評価されたためという見方もできます。
1333年(元弘3年/正慶2年)5月、鎌倉幕府が滅亡。
その後、後醍醐天皇の親政が始まると、顕家は
- 陸奥守(むつのかみ)
- 鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)
に任じられ、津軽地方の北条軍残党を討伐するなど、まだ10代ながら東北地方の統治を任されるようになりました。
足利尊氏(あしかが たかうじ)が反乱を起こすと、北畠顕家は奥州から尊氏討伐の兵を挙げます。
顕家は
- 楠木正成
- 新田義貞
とともに足利軍の撃退に成功。尊氏らは九州へと落ち延び、顕家は華々しい京都凱旋を飾りました。
その後、尊氏についた勢力の討伐のため関東へ向かっていた顕家でしたが、その間に再度挙兵した尊氏によって楠木正成が敗死してしまう事態が発生。(湊川の戦い)
顕家はすぐに畿内へ引き返し、再び足利尊氏と戦います。
またも尊氏軍を圧倒した顕家でしたが、新田義貞と連携が取れず、尊氏のとどめを刺すことができませんでした。
そして軍を立て直した尊氏に敗れた北畠顕家は、以後は劣勢の戦いを強いられるようになっていきます。
そして1338年(延元3年/暦応元年)6月10日、石津の戦いで200の小勢を率いて出陣した顕家でしたが、敵軍に追い詰められて落馬し、その隙を狙って討たれてしまいました。
まだわずか21歳でした。
北畠顕家の【最期の言葉】とその意味とは?
北畠顕家に、辞世の句や最期の言葉は残っていません。
しかし、死の7日前に、自らの絶対的な主君であった後醍醐天皇を諌(いさ)めるために、その政治を批判した【諫言の書(かんげんのしょ)】と呼ばれる文章が伝えられています。
後醍醐天皇がおこなった建武の新政(けんむのしんせい)は、悪政であったことで有名ですが、顕家はこれを批判したのです。その批判の内容は以下の通り
- 速やかに優秀な人材を九州と東北へ送り、反乱を鎮圧せよ。山陽地方・北陸地方にも軍をおいて、反乱に備えよ
- 諸国の税金を3年のあいだ減税して、支出を抑えよ。そうすれば反乱は自然となくなる
- 官職を与えるのは慎重にせよ。褒美には土地を与えるべきで官職を褒美にしてはいけない
- 恩賞・褒美は公平にあたえるべき。
- 臨時の行幸や宴会はおこなってはいけない
- 法令は遵守せよ。朝令暮改や特別扱いは厳禁
- 政治に悪影響を及ぼす者の意見をきいて意思決定すべきではない。貴族や女官・僧侶の利権のために政治をおこなってはならない。
- これらの意見が採用されなければ、私は山野へ隠れ住みます。
北畠顕家は、後醍醐天皇の政治が、国民を不幸へ導く悪政であると断罪したのでした。
楠木正成も死の直前に、後醍醐天皇に対して
「自らに人徳がないことをご理解ください」
と、決死の覚悟で意見を述べたといいます。
北畠顕家は、結局この意見を後醍醐天皇に採用してもらえないまま、若くして足利尊氏の軍に敗れ、亡くなったのでした。
北畠顕家の【子孫】は、どうなったのか?
顕家の息子・顕成(あきなり)は、南北朝時代の軍記物語として有名な『太平記』の作者のひとりであると言われています。
太平記とは、簡単にいえば足利尊氏の活躍を描いた物語のことです。
顕成は陸奥の浪岡氏や、『村上海賊の娘』で有名な村上水軍の祖であるなど様々な説があり、その生涯はよくわかっていません。
青森県青森市の浪岡には、北畠顕家の子孫が残っているといわれています。
この浪岡氏は、源義経を匿ったことで有名な奥州藤原氏三代目の藤原秀衡の子孫を自称していたといいます。
そんな浪岡氏の娘が、北畠顕家の妻になったのだとか。
その浪岡氏の娘が産んだ姫が、今度は十三港で勢力を拡大した安東氏に嫁いだのだとか。
一説によると、北畠顕家の娘が、安東氏に嫁ぎ、安東盛季を産んだといわれています。
安東氏といえば、水軍として有名です。
安東氏はその後、秋田氏と名乗り、江戸時代を通じて大名として栄え、明治維新をむかえています。
秋田氏はその後、子爵として華族にとなっています。
安東氏の子孫は、現在でも東北地方、特に青森県の津軽地方や秋田県に、数多く残っているといわれています。
また、別系統に、北畠の名が残っています。
北畠の名は、顕家の弟・顕能(あきよし)が後世に繋いでいます。
顕能は伊勢(いせ、現在の三重県)で勢力を誇り、その子孫は室町幕府に帰順。伊勢の国司として長年活躍しました。
8代目の北畠具教(とものり)の代になると、勢力を拡大してきた織田信長と戦い、敗れます。

織田信長
引用元ウィキペディアより
その後は信長の次男信雄(のぶかつ)を婿養子にするなど宥和政策を取りましたが、北畠具教は、信長・信雄の命を受けた者によって謀殺されてしまいました。
北畠の名は途絶えてしまいましたが、信雄の側室に北畠分家の娘がおり、その子孫が仁孝天皇(にんこうてんのう)の母となっており、現在の皇室に繋がっていると言えます。
余談ですが、織田信長と戦った北畠具教という人は、大変な剣豪で、塚原卜伝(つかはら ぼくでん)という剣の達人に弟子入りしたことで有名です。
ちなみに北畠具教のほかにも、13代将軍・足利義輝や、その重臣だった細川藤孝も、塚原卜伝の弟子だったといわれています。
北畠顕家の【死後に起こった出来事】とは?
顕家の死後、後醍醐天皇の南朝軍は劣勢に追い込まれ、主力であった新田義貞も戦死して、窮地に追い込まれます。
ところが、北朝を率いていた足利尊氏が、なんと弟の足利直義と仲違いを起こして、戦争を始めます。
これを観応の擾乱(かんのうのじょうらん)といいます。
この観応の擾乱という北朝の内輪もめに、南朝軍は介入します。そして南朝は、勢力を盛り返すことに成功します。
ところが、その勢いも一時的なものでしかなく、南朝は次第に北朝へ追い込まれていきます。
足利尊氏が亡き後も、南北朝の動乱は続き、1392年になって、尊氏の孫で室町幕府3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)の時代に、南朝が北朝に飲み込まれる形で、ようやく内乱は集結するのでした。
南北朝の統一は、1338年に亡くなった北畠顕家の戦死から、54年後のことでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,北畠顕家の『死因』は?
高師直の軍を相手に奮戦し、戦死。
2,北畠顕家が【亡くなった日時】は?
新暦1338年6月10日
旧暦延元3/建武5年5月22日
享年21歳。
3,北畠顕家の【最後の様子】とは?
若くして異例の出世を遂げた顕家は、戦地を転戦し、活躍。しかし足利軍との戦いに敗れて命を落としてしまった。
4,北畠顕家の【最期の言葉】とは?
最期の言葉や辞世の句はないが、後醍醐天皇への諫言が残っている
5,北畠顕家の【子孫】とは?
浪岡氏、村上水軍などがあるが確証はない。伊勢北畠氏は長年伊勢国司を務めたが、織田信長・信雄親子に敗れ滅亡した。
6,北畠顕家の【死後に起こった出来事】とは?
顕家の死後、北朝の足利尊氏と弟・直義のあいだで内乱が勃発。(観応の擾乱)
これ以降、内乱はさらに激しさを増し、1392年までつづく。
以上となります。
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