長宗我部盛親の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 長宗我部盛親の死因は、斬首による処刑。
- 亡くなったのは、1615年6月11日(慶長20年5月15日)。
- 市中引き回しのうえ、六条河原にて処刑された。
この記事では、長宗我部盛親の最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
長宗我部盛親の最後と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
長宗我部盛親の【最期】とは?
長宗我部盛親は、大坂夏の陣の後に徳川軍に捕えられ、京都・六条河原にて斬首されました。
長宗我部盛親は、かつて四国統一を成し遂げた長宗我部元親の子。
四男でありながら当主となりますが、関ヶ原の戦いで家康の不興を買い、領地を取り上げられて大名から転落します。
それからは、京都の寺子屋で師匠をして過ごしていました。
そんな盛親に転機が訪れたのは、1614年(慶長19年)のこと。
徳川家康との関係が悪化した豊臣秀頼から、「我々に加勢してくれないか」と声がかかったのです。
盛親はこれを承諾。
徳川氏の監視をかいくぐり、大坂城に入ります。
そしてはじまった大坂の陣。
盛親は始終、豊臣氏に味方し、真田信繫(真田幸村)らとともに活躍します。
まず冬の陣では、真田信繫らとともに大坂城の南を守り、敵を撃退。
つづく夏の陣でも、猛将と名高い藤堂高虎(とうどう たかとら)の部隊を壊滅させました。
ところが、大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡。
盛親は京都に逃げ込みますが、慶長20年5月11日に捕まってしまいます。
その後、盛親はさらし者にされたうえ、5月15日に六条河原で斬首されました。
享年41。
その遺骸は、京都の蓮光寺に葬られました。
長宗我部盛親の【死因】と【亡くなった日】
長宗我部盛親の【死因】
長宗我部盛親は、京都・六条河原にて斬首刑に処されました。
大坂夏の陣では獅子奮迅の活躍を見せた盛親。
それからわずか1週間後の出来事でした。
長宗我部盛親が【亡くなった日】と【享年】
新暦:1615年6月11日
旧暦:慶長20年5月15日
享年:数えで41歳
長宗我部盛親の【最期の言葉】とその意味とは?
長宗我部盛親の辞世の句は残っていません。
父・元親も同様ですので、これが「敗者」のさだめなのかもしれませんね。
ただ、徳川方に捕らえられ「なぜ腹を切らなかったのか」問われたところ
「大将が軽々しく死ぬべきではない。機会があればまた兵を挙げて恥をそそぐつもりよ」
とうそぶいたといいます。
短気で傲慢な性格だったともいう盛親。
その意地や闘志のすさまじさを感じさせる最後ですね。
長宗我部盛親の【子孫】は、どうなったのか?
長宗我部盛親には5人の男児がいましたが、いずれも大坂の陣のあと処刑されました。
したがって、長宗我部の本家は断絶することとなります。
長宗我部盛親の【死後に起こった出来事】とは?
盛親の死後、徳川家康や秀忠、家光の支配のもと、江戸幕府の体制が着々と整っていきます。
そして戦国時代という戦乱の時代は終わり、太平の世が実現することとなるのです。
「武家諸法度」や「参勤交代」の制度化は、大名の力を削いでいきました。
たとえば豊臣秀吉に若いころから仕えた猛将・福島正則は、「勝手に城を改修した」ことをとがめられて領地を喪失。
同じく豊臣恩顧の名将・加藤清正の子である加藤忠広も、領地を取り上げられました。
こうして盛親の思いとは裏腹に、誰も徳川氏に弓を引くことができなくなっていったのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,長宗我部盛親の『死因』は?
【斬首】
2,長宗我部盛親が【亡くなった日時】は?
1615年6月11日(慶長20年5月15日)
享年41
3,長宗我部盛親の【最後の様子】とは?
京都・六条河原で斬首刑に処された。
4,長宗我部盛親の【最期の言葉】とは?
「機会があればまた挙兵してやる」とうそぶいた。
5,長宗我部盛親の【子孫】とは?
大坂の陣のあと、ことごとく処刑された。
6,長宗我部盛親の【死後に起こった出来事】とは?
江戸幕府が着々と地盤を固め、大名はますます反抗できなくなっていった。
以上となります。
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