藤原道長の母である藤原時姫の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原時姫の死因は、おそらく病死
- 西暦980年2月4日(天元3年1月15日)に亡くなった、享年不明
- 死ぬ前に、夫・藤原兼家が右大臣に昇進した
- 辞世の句または最後の言葉は、不明
- 現在の天皇陛下や、元首相・近衛文麿そして元首相・細川護煕さんという子孫がいる
- 死後、寛和の変、という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原時姫の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原時姫の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原時姫の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原時姫の【死因】と【最後の様子】
藤原時姫の【死因】
【結論】藤原時姫の死因は、不明
藤原時姫の死因は、はっきりしていません。
しかしおそらく病死であると考えられます。
夫・藤原兼家が52歳の時に亡くなっているため、それに近い年齢で亡くなったと考えられるからです。
夫の兼家と同じくらいの年齢であると考えると、時姫が亡くなった年齢も50歳前後ということになります。
当時の平均寿命は短かったといいますが、それにしても50歳の若さで、老衰死の可能性は低いと思います。
病名は不明ですが、病気で亡くなったと考えるのが自然であると思います。
藤原時姫が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦980年2月4日(天元3年1月15日)、享年不明
藤原時姫の享年は不明です。
いつ産まれたのかが不明なので、享年も不明です。
また、天元3年1月15日ではなく、天元3年1月21日に亡くなったという説もあります。
藤原時姫の【生涯年表】
藤原時姫の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
生年不詳 | 藤原中正の娘として誕生 |
953年以前 | 藤原兼家に嫁ぐ |
953年 | 藤原道隆を出産 |
954年 | 藤原超子を出産(超子は、冷泉天皇の女御で、三条天皇の生母) |
961年 | 藤原道兼を出産 |
962年 | 藤原詮子を出産(詮子は、円融天皇の女御で、一条天皇の生母) |
966年 | 藤原道長を出産 |
980年 | 死去 |
987年 | 正一位を贈位される |
藤原時姫の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原時姫の辞世の句は、不明。
藤原時姫の辞世の句は、不明です。
調査しましたが、見つかりませんでした。
実は時姫の資料は、とても少ないのだそうです。
理由は簡単で、夫・藤原兼家が権力を握る以前に亡くなったためです。
どういうことかというと、権力を握ったあとならば、兼家の妻も重くみられて、記録がたくさん残されるでしょう。
しかし、兼家が出世する前に亡くなってしまったので、誰も時姫を重くみなかったのです。
最後は関白まで登りつめた夫・兼家も、時姫が亡くなった時は、右大臣になったばかりでした。
時姫がもしも、息子の藤原道長が権力の頂点に君臨したあとまで生きていたら、記録もたくさん残されていたはずです。
藤原時姫の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原時姫の子孫には、現在の天皇陛下、元首相の細川護煕さん、明治神宮の宮司である九条道成さん、などがいる
藤原時姫の子孫は、その子供たちによって、いくつもの系統に別れて、現在も続いています。
次女・藤原詮子の子孫は、一条天皇を通じて、現在の天皇陛下に続いています。
長男・道隆の子孫は、藤原五摂家を通じて、元首相の近衛文麿や、その孫で同じく元首相の細川護煕さんに続いています。
さらに、歴史上の有名人として、道隆の子である藤原隆家を通じて、平清盛の継母・池禅尼につながっています。
池禅尼の子孫は、その息子・平頼盛を通じて、池氏と名乗って、現在も続いています。
次男・道兼の子孫は、北関東の豪族・宇都宮氏へと引き継がれ、現在も続いています。
三男・道長の子孫は、孫の後朱雀天皇を通じて、現在の天皇陛下に引き継がれています。
道長の子孫は、他にもいくつもの系統に分かれ、五摂家から元首相の細川護煕さんにもつながっています。
藤原時姫の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原時姫の死後、寛和の変、という事件が起こりました。
藤原時姫が亡くなった6年後の986年、寛和の変という政変が起こっています。
この政変で、時姫の夫・藤原兼家が、摂政となり、権力を独占することになります。
また、時姫の娘・藤原詮子が産んだ一条天皇が即位しています。
寛和の変とは、花山天皇が、藤原兼家とその子・道兼の騙されて、出家して天皇の位を一条天皇にゆずってしまった事件です。
最愛の女性・藤原忯子を失った花山天皇は、政治への意欲を失い、出家をしたいと思っていました。
しかし、花山天皇の側近で権力を握っていた藤原義懐たちに阻止され、出家できなかったのです。
藤原義懐からすれば、姉の子である甥の花山天皇の後ろ盾になれていたおかげで、権力を独占できていたので、出家などされては困るのです。
ところが、藤原兼家とその子・道兼は、花山天皇を騙して御所から誘い出し、出家させてしまったのでした。
これにより、藤原兼家の孫である一条天皇が即位。
外祖父の藤原兼家は、その摂政となって、権力を独占。
権力を奪われた藤原義懐は、やむを得ず、花山天皇と共に出家しています。
こうして、藤原兼家は権力の頂点に付き、その権力はその後、兼家と時姫の子供である道隆や道長へと受け継がれていくのです。
余談かもしれませんが、花山天皇はその後、最愛の女性・藤原忯子の妹を愛妾としています。
その愛妾の家に通っている真っ最中に、藤原伊周と隆家という兄弟に襲撃され、歴史を変える権力闘争に巻き込まれていくのです。
ちなみに藤原忯子の死因は、花山天皇に無理をさせられたためです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原時姫の『死因』は?
死因は、病気
2,藤原時姫が【亡くなった日時】は?
西暦980年2月4日(天元3年1月15日)に亡くなった、享年不明
3,藤原時姫の【最後の様子】とは?
最後の様子は、不明。なぜなら資料が少ないため。
4,藤原時姫の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、不明
5,藤原時姫の【子孫】とは?
現在の天皇陛下や、元首相・近衛文麿そして元首相・細川護煕さんという子孫がいる
6,藤原時姫の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、寛和の変、という事件が起こった
以上となります。
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