【源頼朝】の【死因】や【最後の様子】について、くわしくご存じの方は、それほど多くないと思います。
筆者も源頼朝について、その最期の様子がどのようなものなのか、漠然としか知りませんでした。
この記事では、源頼朝の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
源頼朝の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、源頼朝の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
- 源頼朝の死因には諸説あり、落馬や糖尿病または破傷風が原因で亡くなったといわれている。
- 頼朝は、新暦で1199年2月16日。旧暦で建久10年1月13日に亡くなった。享年53歳または満年齢51歳
- 源頼朝の死因を、徳川家康が隠蔽したという逸話がある
源頼朝の【死因】と【亡くなった日】
源頼朝の【死因】
源頼朝の死因には数多くの説あり、定かではありません。
実は源頼朝の死については、はっきりした資料が存在せず、800年が経過した今も謎とされているのです。
現在噂されている源頼朝の死因を一覧にすると、以下のとおりです。
- 落馬(脳卒中などが原因)
- 糖尿病
- 尿崩症(落馬が原因)
- 亡霊・呪い
- 溺死
- 水銀による暗殺
- 間違って殺害された説
- 破傷風説
もっとも有名なものとしては落馬または糖尿病によって亡くなった、という説です。
源頼朝が【亡くなった日】と【享年】
新暦・1199年2月16日
旧暦・建久10年1月13日
享年53歳(満年齢51歳)
源頼朝の死因をくわしく分析・解説
源頼朝の死因については、今も謎に包まれており、はっきりしていません。
その理由は、頼朝の死因について、はっきりと記された記録が残っていないからです。
そんな頼朝の死因には、諸説ありますが、ここではその説を一つ一つ詳細に見てみたいと思います。
落馬説
源頼朝の死因としてもっとも有名な死因です。
鎌倉幕府の公式記録・吾妻鏡には、亡くなる前年にあたる建久9年の冬に、源頼朝が相模川にかけられた橋の供養祭に参加するため出発し、その帰りに落馬したと記されています。
落馬した数日後、頼朝は亡くなったのです。
ただ、落馬して病気を引き起こし亡くなったのか、それとも脳卒中などの病気が原因で落馬したのかがわからず、現在も落馬説には疑問が残っています。
糖尿病説
当時、右大臣だった近衛家実の日記・猪隈関白記には、源頼朝の死因は飲水病、すなわち現代でいうところの糖尿病であると記されています。
また、有名な歌人・藤原定家の日記「明月記」には、頼朝の死因は頓病(急死)であると記されています。
歴史書・愚管抄には、ただ一言だけ病気とだけ記されています。
糖尿病は、何かしらの病気との合併症を起こすことで、初めて死因となる病気であり、糖尿病で亡くなったという説には疑問も残るとされています。
尿崩症説
尿崩症とは、脳に異常が発生して、大量の水を飲みたがり、尿の量が急増する病気のこと。
頼朝が落馬したことで、脳を損傷し、この尿崩症という病気を引き起こして亡くなったのではないか、といわれているのです。
亡霊・呪い説
頼朝が死なせた弟・源義経や、壇ノ浦の戦いで入水して亡くなった安徳天皇らの亡霊を見た頼朝が、驚いて落馬し、そのあと亡くなったという説です。
作家・奥富敬之さんの著書「源頼朝のすべて」という本の中に、頼朝が義経らの亡霊と出会うシーンが解説されていました。
建久九年の冬、頼朝は相模川の橋供養に出席しての帰路、八的ヶ原というところで、彼によって滅ぼされた源義広・源義経・源行家ら、同じ源氏一族の亡霊に出会った。
この亡霊たちは無言で頼朝と目を見合わせるだけであった。
そこを通り過ぎ、次に稲村ヶ崎まで来ると、海上に10歳くらいの童子の亡霊があらわれ
「これまで随分と汝を探し求めたぞ。
我こそは西海に沈んだ安徳天皇である」
と言って姿を消した。
その後、頼朝はようやくにして鎌倉に帰りつくことができたが、すぐに発病し、翌年正月十三日、五十三歳でこの世を去った。
これを老死というべきではない。ひとえに平家の怨霊の祟りによるもので、多くの人々を滅ぼしたためである
確かに当時の人々が、亡霊を信じ、恐れていたことは事実です。
しかし、あまりにも現実離れした死因であると思います。
ちなみに作家・奥富敬之さんの著書「源頼朝のすべて」において、亡霊説についての、詳しい考察が記されておりました。
溺死説
源頼朝が乗った馬が、相模川の河口付近で突然暴れて川に飛び込み、頼朝が落馬して溺死したという説です。
この説は、根拠にとぼしい推測でしかないと考えられています。
水銀による暗殺説
頼朝が、権力保持を狙った妻・政子の実家である北条家の者たちに、水銀を飲まされ続けて亡くなったという説です。
確かに、頼朝の二人の息子である頼家・実朝は、北条一族に殺害されたといわれていますので、頼朝も暗殺された可能性は否定できません。
ただし、根拠にはとぼしい説であるため、現在では可能性は低いと考えられています。
間違って殺害された説
愛人宅へ行く途中の頼朝が、不審者と間違われて斬殺されたという説です。
ですがこれにも根拠がないため、可能性は極めて低いといわれています。
徳川家康が隠蔽した【名将の恥】となる死因説
鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」には、鎌倉幕府の開祖である源頼朝の死因が、なぜか記載されていません。
実は、その死因が記された部分を削除したのが、徳川家康であるという説があるのです。
作家・奥富敬之さんの著書「源頼朝のすべて」に、このことが記されていました。
江戸中期の儒学者にして政治家だった新井白石の書籍・老談一言集に見えるもので、吾妻鏡を愛読したことで知られる徳川家康が
「名将の疵に成る事を後世に伝えるわけにはいかない」
といって頼朝死去の箇所を破り捨てたという説である。
すなわち、この説によれば、頼朝の死に様は後世に伝えるのがはばかられるほど武家の棟梁にふさわしくない不名誉なものであったということになるのである。
家康が破り捨てた吾妻鏡に、どのような頼朝の死因が記されていたのかは、まったく謎です。
一説にはこの不名誉な死に方を、落馬のことであるとも考えられているようですが、真相は不明です。
つまりこの説を信じるならば、徳川家康は、源頼朝の死因を知っていたということになります。
破傷風説
杉浦守邦さんの書籍「武将の死因」には、源頼朝の死因について破傷風であると記されていました。
破傷風とは、傷口から破傷風菌が入り込んで、神経障害を引き起こす病気です。
現在でも予防接種が行われるほど、破傷風は危険で、感染しやすい病気なのです。
参考文献
作家・奥富敬之さんの著書「源頼朝のすべて」を参考とさせていただきました。
タイトル通り、頼朝のすべてが記された素晴らしい作品でした。
またこの本の中で、「源頼朝の死因」について、亡霊に呪い殺された説について、深く考察されていました。
そして、杉浦守邦さんの著書「武将の死因」も参考にさせていただきました。
こちらの本には、頼朝だけではなく、武田信玄や上杉謙信などの死因も記されていました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
- 源頼朝の死因には諸説あり、落馬や糖尿病または破傷風が原因で亡くなったといわれている。
- 頼朝は、新暦で1199年2月16日。旧暦で建久10年1月13日に亡くなった。享年53歳または満年齢51歳
- 源頼朝の死因を、徳川家康が隠蔽したという逸話がある
以上となります。
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