源雅信の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 源雅信の死因は、病気
- 西暦993年8月19日(正暦4年7月29日)に亡くなった、享年74歳
- 死ぬ前に、出家した(当時は出家しないと極楽浄土に行けないと信じられていた)
- 辞世の句は不明だが、毎日「南無八幡大菩薩 南無金峯山金剛蔵王 南無大般若波羅蜜多心経」と唱えていたという
- 維新十傑のひとりである前原一誠という子孫がいる
- 死後に、藤原道長と娘の源倫子が一家で三人の后を立てる、という事件が起こった
この記事では、源雅信の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
源雅信の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、源雅信の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
源雅信の【死因】と【最後の様子】
源雅信の【死因】
【結論】源雅信の死因は、病気
源雅信は病死しています。
詳しい病名は不明です。
源雅信は、病気を理由に仕事を辞めているのです。
その2ヶ月後、亡くなっています。
源雅信が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦993年8月19日(正暦4年7月29日)、享年74歳
源雅信の【生涯年表】
源雅信の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
920年 | 誕生 |
936年 | 臣籍降下、従四位下に直叙 |
938年 | 侍従に任官 |
942年 | 右近衛権中将に任官 |
945年 | 従四位上 |
948年 | 蔵人頭 |
951年 | 参議、公卿に列 |
955年 | 正四位下 |
962年 | 従三位 |
968年 | 正三位 |
969年 | 円融天皇即位、信任を得て急速に昇進 |
970年 | 権中納言 |
972年 | 中納言 |
973年 | 大納言 |
977年 | 右大臣 |
978年 | 左大臣 |
984年 | 花山天皇即位、東宮傅を務める |
985年 | 高齢による足腰の不調を訴える |
987年 | 娘・倫子が藤原道長に嫁ぐ |
991年 | 弟・重信が右大臣に就任 |
993年 | 5月より病気のため辞官、7月28日出家、29日死去 |
源雅信の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】源雅信の辞世の句は、不明だが
「南無八幡大菩薩 南無金峯山金剛蔵王 南無大般若波羅蜜多心経」
という念仏踊りを毎日100回おこなっていたといいます。
源雅信の辞世の句は、不明です。
わかっていません。
その代わりではありませんが、源雅信は毎日毎日、念踊という、仏や経典の名前を唱えることをやっていたといいます。
「南無八幡大菩薩 南無金峯山金剛蔵王 南無大般若波羅蜜多心経」
これを百回となえることを日課にしていたようです。
現代語に訳すと
「八幡大菩薩さまに全ておまかせします。
(奈良の)金峯山の金剛蔵王さまに全ておまかせします。
大般若波羅蜜多心経に全てしたがいます。」
という意味になるようです。
源雅信は、かなり信心深い性格だったと思われます。
源雅信の【子孫】は現在、どうなったかを解説
【結論】源雅信の子孫には、幕末に活躍した維新十傑の一人・前原一誠がいる
実は源雅信の子孫は、現在も数多くおられます。
当然ですが、娘の源倫子が産んだ子供達の血筋が、現在の天皇陛下につながっています。
また、現在も続く五摂家にも、子孫が続いています。
明治神宮の宮司である九条道成さんも、源雅信の子孫の一人です。
そして源雅信の子孫といえば、宇多源氏雅信流といって、いくつもの系統に枝分かれしています。
お公家さんとしても現在に続いています。
それだけでも数が多すぎて、表記しきれないほどです。
特に有名なのは、宇多源氏の佐々木氏でしょうか。
源雅信の子孫の一系統である佐々木氏(佐々木源氏)からは、歴史に名を刻んだ多くの有名人がいます。
- 佐々木道誉(京極家の祖。足利尊氏の親友)
- 尼子経久(出雲守護代)
- 黒田官兵衛(豊臣秀吉の軍師)
- 六角承禎(織田信長に敗れた南近江の大名)
- 京極高次(佐々木道誉の子孫。信長・秀吉・家康に仕えた)
- 今井宗久(堺の商人で茶人)
- 佐々木小次郎(巌流島で宮本武蔵と決闘)
- 堀部安兵衛(赤穂四十七士のひとり)
- 前原一誠(維新十傑のひとり。松下村塾の塾生)
- 乃木希典(大日本帝国軍の聖将)
他にも数多くの子孫がいるわけですが、あげたらキリがありません。
これらの人物の子孫は、現在も続いている人も数多くいます。
中でも、維新十傑のひとりで、松下村塾で吉田松陰先生の弟子として学んだ前原一誠の子孫は、現在も続いています。
非常にありがたいことに、以前、前原一誠の子孫の方が、当サイトへ情報をくださいました。
前原一誠の子孫は、現在も山口県萩市の旧宅にお住まいとのことです。
源雅信の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】源雅信の死後、娘・源倫子が産んだ娘達が三后になる、という事件が起こりました。
源雅信は、娘の源倫子を、花山天皇または一条天皇の中宮つまり妻とすることを望んでいたといいます。
しかしそんな中、藤原道長が倫子に対して、結婚を申し込んできたのです。
雅信は反対したものの、妻である藤原穆子が、道長に嫁がせるべきだと主張したのです。
一条天皇も、次の天皇である三条天皇も、倫子に比べると10歳以上若いため、中宮にはなれないと言ったのだとか。
藤原穆子は、そう言うと、強引に倫子を道長に嫁がせてしまったのでした。
源雅信は、道長と倫子の行く末を見ることなく亡くなりました。
しかしその後、源倫子は権力の絶頂をむかえることになります。
995年、藤原道長は氏長者つまり藤原氏の長に選ばれます。
道長と倫子のあいだに生まれた娘・藤原彰子は、一条天皇に入内。
そして後一条天皇と後朱雀天皇を出産しています。
さらに、次女・藤原姸子は、三条天皇に入内。
三女の威子は、後一条天皇に入内。
つまり
- 現在の天皇の后(後一条天皇の后・威子)
- 先代天皇の后である皇太后(三条天皇の后・姸子)
- 先々代天皇の后である太皇太后(一条天皇の后・彰子)
という、后三名をすべて自分の娘で独占したのでした。
道長は、威子を入内させた直後、有名な望月の歌を詠んでいます。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
この世はまるで私のためにあるかのようだ。満月のように欠けたところもない
ところが、源倫子は夫や彰子を除いた三人の娘達に先立たれてしまったので、晩年は孤独だったかもしれません。
ちなみに夫である藤原道長は、法成寺にある九体阿弥陀堂と呼ばれるお堂にこもって、九体の阿弥陀如来像と自分の手を糸で結び、極楽浄土へ行くことを夢見ながら亡くなったといいます。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,源雅信の『死因』は?
死因は、病気
2,源雅信が【亡くなった日時】は?
西暦993年8月19日(正暦4年7月29日)に亡くなった、享年74歳
3,源雅信の【最後の様子】とは?
最後の様子は、死の前日に出家している(当時は出家しないと極楽浄土に行けないと信じられていた)
4,源雅信の【最期の言葉】とは?
辞世の句は不明だが、毎日「南無八幡大菩薩 南無金峯山金剛蔵王 南無大般若波羅蜜多心経」と唱えていたという
5,源雅信の【子孫】とは?
子孫は、維新十傑のひとり前原一誠
6,源雅信の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、藤原道長と娘の源倫子が一家で三人の后を立てる、という事件が起こった
以上となります。
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