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大河ドラマ「べらぼう」の登場人物一覧

2025年の大河ドラマ「べらぼう」の登場人物をまとめてご紹介!

死因と最期そして子孫のゆくえなどを、まとめて解説!

それぞれの人物の詳細は、リンク記事をご覧いただければ、くわしく解説しております。

目次

蔦屋重三郎と仲間たち

蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろう

江戸時代を代表する出版業者。

通称「蔦重つたじゅう」。

蔦屋重三郎
引用元Wikipediaより

洒落本しゃれぼん黄表紙きびょうし物語ものがたり浮世絵うきよえ錦絵にしきえ狂歌本きょうかぼん、江戸の庶民に娯楽を広め、出版業にて世を変える。

  • 喜多川歌麿きたがわうたまろ
  • 東洲斎写楽とうしゅさいしゃらく
  • 曲亭馬琴きょくていばきん
  • 葛飾北斎かつしかほくさい
  • 大田南畝おおたなんぽ
  • 十返舎一九じっぺんしゃいっく
  • 山東京伝さんとうきょうでん

などなど、数々の逸材を見出し、育て、世に送り出したのが、この蔦重つたじゅう

老中・田沼意次の治世の時代に、自由を謳歌おうかし、出版で勢いづくが、老中・松平定信の寛政の改革で、商売規模を大幅に縮小させられる。

その後、病死。

現在「TSUTAYA」という書店・レンタル業者が有名だが、蔦屋重三郎とは無関係らしい。

蔦屋重三郎の死因とTSUTAYAとの関係については以下のリンク記事で詳しく解説しています
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喜多川歌麿きたがわうたまろ

江戸時代を代表する浮世絵師。

喜多川歌麿
引用元Wikipediaより

蔦屋重三郎を出版元にして、数々の作品を世に送り出した。

美人画や「深川の雪」などの絵を残した名人。

「深川の雪」歌麿画
引用元Wikipediaより

弟子は数多くいたが、誰一人として師にかなうものはいなかったという。

1804年、豊臣秀吉の「醍醐の花見」を題材とした絵を描いたことが、当時の違法行為となり、捕縛。(織豊時代以降の人を題材とすることは、このとき禁止されていた)

投獄されて、手鎖50日の刑となった歌麿は、その後体調を崩す。

治る見込みがないとわかると、存命のうちにと、出版元から依頼が殺到したという。

投獄された2年後に亡くなる。

家族や子孫のゆくえは謎。

喜多川歌麿の死因と子孫については以下のリンク記事で詳しく解説しています
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江戸幕府の関係者

田沼意次たぬまおきつぐ

江戸時代中期の老中。

遠江国・相良藩の初代藩主。

田沼意次
引用元Wikipediaより

九代将軍・徳川家重、十代将軍・徳川家治の時代に、側用人から老中へ、大出世を遂げた逸材。

田沼時代と呼ばれた時代を起こし、株仲間制度という、いわゆる同業者組合を優遇する制度を推し進めた。

業者を儲けさせ、そこから税を集めることを意図したものだというが、株仲間という特権階級を手にするため、賄賂が横行したという。

息子を暗殺されるという悲劇に見舞われるほど、意次は憎まれたという。

賄賂政治家と揶揄され、敵が多かったという田沼は、後ろ盾であった十代将軍・徳川家治の死去により、失脚。

その後、失意のうちに亡くなった。

子孫には、田沼道雄さんという方がおられ、そのお子さんが現在もお元気にお過ごしと思われる。

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田沼意知たぬまおきとも

田沼意次の嫡男。

35歳という若さで、幕府・若年寄になるという異例の出世を遂げる。

父・意次は老中として権力を振るい、賄賂政治と揶揄やゆされた政治を行った。

意次・意知親子は、ともに江戸市民から憎まれていたという。

意知はある日、江戸城で斬りつけられ、亡くなった。

江戸市民は、意知を斬った犯人を大明神と呼んで賞賛したという。

オランダ商館長ティチングは、田沼意知を評価しており

「日本が開国する道は閉ざされた」

と、その死を惜しんだという。

田沼意知の子孫は、直系は断絶しているが、弟の子孫がつづいている。

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徳川家治とくがわいえはる

徳川幕府10代征夷大将軍

9代将軍・徳川家重の子。

名君として名高い徳川幕府の中興の祖、8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる。

徳川家治
引用元Wikipediaより

祖父・吉宗から寵愛され、英才教育をほどこされたという。

常に祖父・吉宗のような名君であろうとし、倹約と鷹狩りにはげんだ逸話が残る。

極端な愛妻家であったためか、生まれた四人の子どもたち全員に先立たれ、世継ぎに恵まれなかった。

田沼意次に政治を任せ、趣味の世界に没頭。

将棋を特に好んでいたといわれる。

いとこの子である徳川家斉を養子にして、11代将軍としている。

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松平定信まつだいらさだのぶ

江戸幕府の老中。

陸奥国・白河藩3代目藩主

8代将軍・徳川吉宗の孫。

田沼意次のライバル。

松平定信
引用元Wikipediaより

老中として、寛政の改革と呼ばれる緊縮改革を行なった。

しかし、その締め付けがあまりにも強すぎて、大田南畝などは

「白河は清すぎて住めない!田沼が恋しい」

と、田沼時代を懐かしむ狂歌を残すほどだった

寛政の改革は6年で終わり、失脚。

最後は風邪で亡くなったが、亡くなる直前、蔦重たち出版業界から反撃を受けたという。

子孫は現在も、真田家や土岐家に続いている。息子の真田幸貫は、佐久間象山の主君だった。

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