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田沼意次の死因と最後をわかりやすく解説!子孫のゆくえとは

田沼意次たぬまおきつぐの【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。

  1. 田沼意次の死因は、病死
  2. 西暦1788年8月25日(天明8年7月24日)に亡くなった、享年70歳
  3. 死ぬ前に、息子・意知を暗殺され、老中から失脚した
  4. 松平定信と田沼意次の治世を風刺した「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌がある
  5. 子孫には、田沼道雄さんという方と、その二人のお子さんがいる。
  6. 死後、松平定信の寛政の改革、という歴史的事件が起こった

この記事では、田沼意次の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。

田沼意次の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。

これを読んで、田沼意次の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

目次

田沼意次たぬまおきつぐの【死因】と【最後の様子】

田沼意次の【死因】

【結論】田沼意次の死因は、病死

詳しい病名は不明ですが、失意のうちに、医師と一族に看取られて亡くなったとのことです。

松平定信によって失脚させられ、息子の田沼意知を暗殺され、気力を失ったのでしょう。

田沼意次が【亡くなった日】と【享年】

【結論】西暦1788年8月25日(天明8年7月24日)、享年70歳


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田沼意次の【生涯年表】

田沼意次の生涯を、ザッと解説いたします。

元号 出来事
1719年 享保4年 江戸本郷弓町に生まれる。
1734年 享保19年 9代将軍・徳川家重の小姓となる。
1735年 享保20年 父から知行600石を受け継ぐ。
1737年 元文2年 従五位下・主殿頭に叙任される。
1748年 寛延元年 石高1400石加増。合計2000石となる。
1755年 宝暦5年 石高3000石加増。合計5000石となる。
1758年 宝暦8年 石高5000石加増。1万石の大名となる。
1760年 宝暦10年 9代家重が引退し、徳川家治が10代征夷大将軍となる。
1762年 宝暦12年 石高5000石加増。合計1万5000石となる。
1767年 明和4年 側用人に異動。従四位下に昇叙。石高5000石加増。合計2万石となる
1769年 明和6年 老中格に異動し、側用人兼務。侍従兼任。石高5000石加増。合計2万5000石。
1772年 明和9年 老中に異動。石高5000石加増。合計3万石。
1777年 安永6年 石高7000石加増。合計3万7000石。
1781年 天明元年 石高1万石加増。合計4万7000石。
1784年 天明4年 長男・田沼意知たぬまおきともが、江戸城内で暗殺される。
1785年 天明5年 石高1万石加増。合計5万7000石。
1786年 天明6年 将軍家治の死去により失脚。2万石を没収。合計3万7000石。
1787年 天明7年 蟄居ちっきょ謹慎きんしん)。残り3万7000石を没収。
1788年 天明8年 死去。享年70。

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田沼意次を風刺した狂歌・名言とその意味を解説

【結論】田沼意次の政治を風刺した狂歌として有名なのが、大田南畝おおたなんぽの狂歌

「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」

です

田沼意次は、腐敗した賄賂わいろ政治を行なったといわれています。

そんな田沼のやり方を批判したのが、8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる松平定信です。

松平定信
引用元Wikipediaより

松平定信は、寛政の改革とよばれるクリーンな政治を目指した改革を断行します。

ところが、その松平定信の改革は、庶民にも質素倹約を命じる、とても暮らしにくいものでした。

出版規制まで行われたといいます。

結果として、庶民の娯楽として流行していた蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうの錦絵なども制限され、蔦屋重三郎の商売は規模を縮小したのでした。

蔦屋重三郎
引用元Wikipediaより

それに対して、庶民はこの歌を読んだのです。

意味は以下の通りです

白河藩のお殿様である松平定信が目指した清い政治では、魚のような庶民には、とても住みにくい世となります。

もとの濁りきった田沼意次の世のほうが、まだ良かったなぁ。

松平定信への批判は強まり、結局6年で失脚することになります。

蔦屋重三郎の死因と子孫については以下のリンク記事で詳しく解説しています

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田沼意次の【子孫】は、どうなったのかを解説

【結論】田沼意次の子孫には、田沼道雄みちおさんという人物がいる

田沼意次の子孫は、現在も続いており、子孫には田沼道雄さんという方がおられます。

田沼道雄さんは、学生の頃、日本史の授業で江戸時代中期に差し掛かると、先祖のことが悪く言われるため、学校を休んでいたといいます。

1924年生まれの田沼道雄さんには、二人のお子さんがおられるようです。

道雄さんのお子さんは、お二人とも1960年代生まれなのだとか

2024年現在、田沼道雄さんのお子さん達は、60代ということになります。

また、田沼意次の失脚で、5万7千石から1万石に領地が削減されます。

領地も、遠江国・相良から、陸奥国・下村へ移動を命じられたのでした。

田沼意次の四男である田沼意正は、その後順調に出世を繰り返し、遠江国・相良への復帰を果たします。

これにより、田沼意正は、「中興の祖」と呼ばれることになるのです。

その後、田沼家は明治維新をむかえ、子爵となります。

大正時代には、その爵位を返上しています。


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田沼意次の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?

【結論】田沼意次の死後、松平定信の寛政かんせいの改革、という事件が起こりました。

田沼意次が亡くなると、老中となった松平定信が、寛政の改革と呼ばれる幕府の改革を実行に移します。

この改革は、松平定信の祖父・8代将軍・徳川吉宗が行った「享保の改革」をお手本にしたものでした。

この改革により、松平定信は、財政破綻寸前の江戸幕府の財政を立てなおそうとしたのです。

しかしこの寛政の改革は、庶民にまで贅沢ぜいたくを禁止した、徹底した倹約令でした。(庶民にまで倹約を命じたため、かえって経済は停滞した)

そのため庶民は苦しめられ、各方面から松平定信への批判が続出。

一定の成果を挙げた寛政の改革は、松平定信の失脚のあとも、後任の者たちに引き継がれることになります。


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まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,田沼意次の『死因』は?

死因は、病気

 

2,田沼意次が【亡くなった日時】は?

西暦1788年8月25日(天明8年7月24日)に亡くなった、享年70歳

 

3,田沼意次の【最後の様子】とは?

最後の様子は、息子・意知を暗殺され、老中から失脚し、失意のうちに病死した

 

4,田沼意次の【最期の言葉】とは?

松平定信と田沼意次の治世を風刺した「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌がある

 

5,田沼意次の【子孫】とは?

子孫は、田沼道雄さんという方と、その二人のお子さんがいるという。また、田沼意次の子・田沼意正は、中興の祖とよばれている

 

6,田沼意次の【死後に起こった出来事】とは?

死後に、松平定信の寛政の改革、という事件が起こった

以上となります。

本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。

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