藤原顕光の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原顕光の死因は、病気
- 西暦1021年7月7日(治安元年5月25日)に亡くなった、享年78歳
- 死ぬ前に、陰陽師・蘆屋道満に、藤原道長の呪詛をさせた
- 辞世の句または最後の言葉は、不明
- 楽天創業者・三木谷浩史さん、本多忠勝・正信、徳川慶喜、大隈重信、という子孫がいる
- 死後、、藤原道長の子供が次々に亡くなる、という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原顕光の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原顕光の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原顕光の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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藤原顕光の【死因】と【最後の様子】
藤原顕光の【死因】
【結論】藤原顕光の死因は、病気
藤原顕光は、娘の延子が嫁いだ敦明親王が、延子を捨てたことを嘆き、病気で亡くなったといいます。
敦明親王は、三条天皇の子で、後一条天皇の皇太子でした。
しかし藤原道長の圧力に負け、皇太子を辞退。
その見返りに、敦明親王は藤原道長の娘・寛子を妻として与えられたのです。
寛子を妻とした敦明親王は、それまで妻だった延子とその子を捨てていきます。
これに激怒した藤原顕光は、安倍晴明のライバルとして有名な陰陽師・蘆屋道満に道長への呪いをさせたといいます。
その4年後、藤原顕光は亡くなり、娘の延子も亡くなったといいます。
藤原顕光が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1021年7月7日(治安元年5月25日)、享年78歳
藤原顕光の【生涯年表】
藤原顕光の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
944年 | 藤原兼通の長男として誕生 |
961年 | 従五位下に叙位 |
973年 | 従五位上・左衛門佐に叙任 |
974年 | 正五位下・蔵人頭に叙任 |
975年 | 従四位下・参議に叙任 |
977年 | 権中納言に昇進 |
990年 | 叔父・藤原兼家が死去 |
995年 | 権大納言に昇進 |
996年 | 右大臣に昇進、娘の元子を一条天皇に入内させる |
997年 | 元子が懐妊するが、流産 |
999年 | 道長が長女・彰子を一条天皇に入内させる |
1000年 | 彰子が中宮に、定子が皇后に |
1011年 | 一条天皇が崩御、三条天皇が即位 |
1016年 | 三条天皇が敦成親王に譲位、敦明親王が東宮(皇太子)となる(その後、敦明親王は皇太子を辞退) |
1017年 | 左大臣に昇進 |
1018年 | 道長が娘・威子を後一条天皇に入内させる |
1021年 | 従一位に叙位、薨去 |
1025年 | 道長の娘・寛子、嬉子、皇太后・妍子が相次いで死去 |
藤原顕光の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原顕光の辞世の句、または最期に残した言葉は、不明です。
藤原顕光の辞世の句は、調査しましたが、見つかりませんでした。
藤原顕光の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原顕光の子孫には
- 現代の「楽天」社長の三木谷浩史さん
- 戦国時代の本多忠勝・本多正信
- 幕末の徳川慶喜
- 幕末明治の大隈重信
などの人物がいる
藤原顕光の子孫は、徳川家康につかえた本多氏、そして佐賀藩につかえた石井氏であるといわれています。
その本多氏の子孫が、現在の「楽天」の創業者である三木谷浩史さんです。

三木谷浩史
引用元Wikipediaより
三木谷浩史さんは、徳川四天王のひとりである本多忠勝の子孫でもあります。
その本多忠勝が、まさに藤原顕光の子孫なのです。
つまり三木谷浩史さんは、本多忠勝を通じた、藤原顕光の子孫ということです。

本多忠勝
引用元Wikipediaより
本多忠勝の遠縁に、徳川家康の軍師で友であったという本多正信がいます。
本多正信と、その息子で宇都宮釣り天井事件で失脚した本多正純も、当然ながら藤原顕光の子孫なのです。

本多正信
引用元Wikipediaより
そして、本多忠勝の孫・忠刻が、徳川家康の孫・千姫と結婚して、娘をもうけています。
その娘が、最後の将軍・徳川慶喜へとつながっています。
つまり本多忠勝を通じて、徳川慶喜も、藤原顕光の女系子孫にあたります。

徳川慶喜
引用元ウィキペディアより
その徳川慶喜の子孫は、現在「徳川慶喜家」という家を継承している五代目・山岸美喜さんという方です。
さらに、藤原顕光の子孫は本多氏だけではなく、佐賀藩につかえた重臣・石井氏へと引き継がれているのです。
石井氏は、佐賀藩・鍋島家の重臣です。
佐賀藩の藩祖・鍋島直茂の正室・陽泰院は、その石井氏の出身です。
陽泰院は、佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂を産んでいます。
さらに、元首相で、早稲田大学の創立者である大隈重信は、高祖母が石井氏の出身です。

大隈重信
引用元ウィキペディアより
そのため、大隈重信もまた、藤原顕光の女系子孫ということになります。
藤原顕光の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原顕光の死後、藤原道長の子供が次々に亡くなる、という事件が起こりました。
藤原顕光が亡くなった4年後から、藤原道長の娘三人が相次いで亡くなるという事件が起こりました。

藤原道長
引用元Wikipediaより
顕光の死から4年後の1025年、顕光の娘・延子から敦明親王を奪った寛子が病死。
同年、敦良親王の妃である藤原嬉子が、出産直後に亡くなります。
2年後の1027年、三条天皇の中宮だった藤原姸子も亡くなります。
寛子・嬉子・姸子と、道長は三人の娘を立て続けに失ったのです。
その死の原因は、藤原顕光とその娘・延子の怨霊によるものだと噂されました。
その後、藤原顕光は、悪霊左府と呼ばれるようになったのです。(左府とは、左大臣の別名)
1028年、藤原道長は、法成寺の九体阿弥陀堂と呼ばれるお堂で、九体の阿弥陀如来像に囲まれて、亡くなるのでした。
極楽浄土へ行くことを夢見て、九体の阿弥陀如来像と自分の手を、糸でつないだといいます。
さらにはお釈迦様の最期と同じく、北向きの枕で、西を向いて横になったとのこと。
このような最期をむかえたということは、もしかすると道長は、悪霊左府・藤原顕光の怨念を恐れたのかもしれません。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原顕光の『死因』は?
死因は、病気
2,藤原顕光が【亡くなった日時】は?
西暦1021年7月7日(治安元年5月25日)に亡くなった、享年78歳
3,藤原顕光の【最後の様子】とは?
最後の様子は、死ぬ前に、陰陽師・蘆屋道満に、藤原道長の呪詛をさせるほど、道長を恨んでいたという
4,藤原顕光の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、不明
5,藤原顕光の【子孫】とは?
楽天創業者・三木谷浩史さん、本多忠勝・正信、徳川慶喜、大隈重信、という子孫がいる
6,藤原顕光の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、藤原道長の子供が次々に亡くなる、という事件が起こった
以上となります。
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