豊臣秀長の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 豊臣秀長の死因は、病気
- 西暦1591年2月15日(天正19年1月22日)に亡くなった、享年52歳
- 死ぬ前に、秀吉の側室である淀殿の城・淀城を建築した
- 「かけて今日 行幸をまつの 藤浪の ゆかり嬉しき 花の色かな」という辞世の句または和歌を残した
- 直系子孫はいないが、現在の天皇陛下は、秀長の姉の子孫にあたられる
- 死後、死後に、秀吉の息子・豊臣鶴松が亡くなる、という事件が起こったという歴史的事件が起こった
この記事では、豊臣秀長の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
豊臣秀長の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、豊臣秀長の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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豊臣秀長の【死因】と【最後の様子】
豊臣秀長の【死因】
【結論】豊臣秀長の死因は、病気
豊臣秀長は、病気で亡くなりました。
くわしい病名は不明です。
亡くなるちょうど2年前から、秀長は体調を崩しています。
豊臣秀長が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1591年2月15日(天正19年1月22日)、享年52歳
秀長が亡くなる前年の1590年、秀長の兄・秀吉は、小田原合戦に勝利して天下統一に成功しています。
兄の天下統一を見届けて、秀長は亡くなったのでした。
天下統一を達成した直後、秀吉の子供・豊臣鶴松が幼くして亡くなっていました。
そのため、秀吉と秀長の姉・日秀尼の子である豊臣秀次が後継者として有力でした。
ところがその秀次も、豊臣秀長の死後、切腹して果てることになるのです。
豊臣秀長の【生涯年表】
豊臣秀長の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
1540年 | 尾張国中村にて誕生 |
1573年 | 兄・秀吉が浅井氏を滅ぼした功により長浜城主となる |
1575年 | 秀吉より羽柴の名字を与えられる |
1577年 | 但馬国平定に貢献 |
1578年 | 別所長治の反乱鎮圧に貢献 |
1580年 | 鳥取城攻め、備中高松城攻めに参戦 |
1582年 | 本能寺の変後、山崎の戦いに参戦 |
1583年 | 賤ヶ岳の戦いに参戦、美濃守に任官 |
1584年 | 小牧・長久手の戦いに参戦、秀長に改名 |
1585年 | 紀州征伐、四国攻めに参戦、従二位権大納言に任官 |
1586年 | 大友宗麟の救援に貢献 |
1587年 | 九州平定に貢献 |
1588年 | 紀伊雑賀における材木着服事件 |
1589年 | 淀城改修を担当 |
1591年 | 大和郡山城にて病死 |
豊臣秀長の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】豊臣秀長の辞世の句、または残した和歌は
「かけて今日 行幸をまつの 藤浪の ゆかり嬉しき 花の色かな」
です
現代語訳
今日の行幸を待ちわびて咲き誇る藤の花。その藤浪の色が、昔からのゆかりの地を思い出させてくれて、とても嬉しいことだ。
語釈
- かけて=待っている間に
- 今日=その日
- 行幸:行幸=天皇や皇族などが外出し、特定の場所を訪れること
- まつの:まつ=待つ
- 藤浪=藤の花が咲き誇り、波のように見える様子(藤の花は、藤原氏の家紋)
- ゆかり=関係、縁
- うれしき=嬉しい
- 花の色=花の色
この歌は、1588年、後陽成天皇が関白・豊臣秀吉の邸宅である京都・聚楽第へ行幸したときに歌われたものです。
藤の花は、藤原氏の家紋にも使われている花です。
この行幸の3年前の1585年、秀吉は、藤原道長の子孫である五摂家の筆頭・近衛家の当主・近衛前久の養子となっていました。
そのため、秀吉は藤原氏を名乗っていたのです。
藤原氏の養子となって、自分も藤原氏となった直後、秀吉は五摂家しか就任できない最高の位である関白に就任。
1586年、関白となった翌年、秀吉は天皇から豊臣という名前をもらい、藤原秀吉から豊臣秀吉へと名前が変わったのでした。
1588年、後陽成天皇が、秀吉の邸宅である聚楽邸へ行幸つまりおでかけしてきたのです。
これは大変名誉なことでした。
この藤原氏の家紋にも描かれた藤の花が咲き誇ったなかで、行幸が行われ、秀長は藤原氏のゆかりの地であることを思い出し、この歌を詠んだのでしょう。
豊臣秀長の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】豊臣秀長に子孫はいない。しかし姉・日秀尼の子孫が、現在の天皇陛下
豊臣秀長の子は、3人いましたが、全員が亡くなっているので、直系子孫はいません。
しかし、姉である日秀尼の子である完子姫の子孫が、現在の天皇陛下です。
秀長には、一男二女がいたといいます。
- 小一郎
- おきく
- おみや
このうち長男・小一郎は幼くして亡くなりました。
長女・おきくは、毛利輝元の養子である毛利秀元の妻となりましたが、若くして亡くなります。
次女・おみやは、秀長の姉・日秀尼の子である豊臣秀保の正室となります。
秀長は、甥にあたる秀保を養子にして、自分の後継者にしようとしたようです。
ところが、秀保は17歳という若さで亡くなりました。
その妻であるおみやとのあいだに、子供はいなかったといいます。
おみやがその後、子供を産むことはなかったようなので、秀長の子孫は子の代で断絶しています。
秀吉の子孫には、孫の国松丸が木下延由と名乗って生き延び、現在まで子孫をつなげているという言い伝えがあるようですが、本当かどうかは不明です。
秀吉と秀長の姉である日秀尼の子で、豊臣秀勝という子がいました。
秀次の弟で、秀保の兄にあたる子です。
この秀勝と、織田信長の妹・お市の方の三女であるお江の方のあいだに、完子姫が生まれています。
秀勝は、子供が生まれてまもなく、朝鮮出兵で病死。
お江は、徳川家康の子・秀忠と再婚し、三代将軍となる徳川家光を産んでいます。
この完子姫が、あの藤原道長の子孫にあたる九条家の当主・九条幸家と結婚しています。
その子孫が、天皇家へ入内(嫁入り)し、その子孫が現在の天皇陛下というわけです。
余談ですが、豊臣秀次の娘が真田信繁(幸村)の側室となり、二人のあいだに娘が生まれています。
その娘が、秋田の大名・佐竹義宣の弟に嫁ぎ、岩城重隆という子供を産んでいます。
豊臣秀長の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】豊臣秀長の死後、兄・豊臣秀吉の息子・豊臣鶴松の死と、朝鮮出兵、という事件が起こりました。
1591年、秀長が亡くなった半年後、兄・豊臣秀吉のゆいいつの子で、豊臣家の後継者であった豊臣鶴松が、わずか3歳で亡くなります。
後継者を失った秀吉は、姉・日秀尼の子である豊臣秀次を後継者に定めます。
1592年、秀吉は朝鮮出兵を開始。(文禄の役)
これから、豊臣家は滅亡へ向けて走り抜けることになります。
1593年、秀吉と淀殿のあいだに、豊臣秀頼が誕生。
秀次を後継者と定めた直後に授かった子供の誕生は、その後の豊臣家に波乱を呼びます。
秀吉は甥・秀次ではなく、我が子である秀頼を後継者にしたいと考え始めたといいます。
1595年、秀頼との関係が発端となり、謀反の嫌疑をかけられた秀次が、高野山で自害。
秀次の妻子一族数十名が、全員処刑。
1597年、再び朝鮮出兵が開始。(慶長の役)
1598年、豊臣秀吉・死去
1600年、関ヶ原の戦いで、徳川家康が石田三成に勝利し、実質的な天下人となる。
1603年、家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開く。
1605年、家康が征夷大将軍の職を、息子の秀忠にゆずり、天下を豊臣ではなく徳川が支配することを世に知らしめる。
1614年、方広寺鐘銘事件がきっかけとなって大坂冬の陣が開始。豊臣・徳川の両家が講和。
1615年、大坂夏の陣開始。豊臣秀頼と淀殿が自害し、豊臣家滅亡。戦国が終わる。
1616年、徳川家康・死去。
秀長が亡くなって、わずか25年で、豊臣家は滅亡したのでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,豊臣秀長の『死因』は?
死因は、病気
2,豊臣秀長が【亡くなった日時】は?
西暦1591年2月15日(天正19年1月22日)に亡くなった、享年52歳
3,豊臣秀長の【最後の様子】とは?
最後の様子は、居城だった大和郡山城で病死した
4,豊臣秀長の【最期の言葉】とは?
「かけて今日 行幸をまつの 藤浪の ゆかり嬉しき 花の色かな」という和歌を残した
5,豊臣秀長の【子孫】とは?
子孫は、直系子孫はいないが、現在の天皇陛下は、秀長の姉の子孫にあたられる
6,豊臣秀長の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、秀吉の息子・豊臣鶴松が亡くなる、という事件が起こった
以上となります。
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