高階貴子の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 高階貴子の死因は、病気
- 西暦996年(長徳2年10月頃)に亡くなった、享年不明だが、40代であると考えられる
- 死ぬ前に、伊周と隆家という二人の息子が左遷された
- 「忘しの 行末まては かたけれは けふをかきりの 命ともかな」という小倉百人一首の一つに数えられた歌を残した
- 子孫は、元首相・細川護煕さん、池禅尼、坊門清忠などがいる
- 死後、娘・藤原定子の死、という歴史的事件が起こった
この記事では、高階貴子の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
高階貴子の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、高階貴子の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
高階貴子の【死因】と【最後の様子】
高階貴子の【死因】
【結論】高階貴子の死因は、病気
高階貴子の死因は、病気です。
くわしい病名はわかりませんでした。
息子の藤原伊周と隆家が、長徳の変でそれぞれ左遷と流罪になったため、ショックを受けたものと考えられます。
その直後に、高階貴子はひっそりと亡くなっているのです。
高階貴子が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦996年(長徳2年10月頃)、享年不明だが、40代であると考えられる
生年が不明なので、享年もわかりません。
しかしおそらく40代で亡くなったものと考えられます。
また、いつ亡くなったのか、正確な日時も不明です。
高階貴子の【生涯年表】
高階貴子の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
生年不詳 | 誕生 |
960年頃 | 円融朝に内侍として宮中に出仕 |
974年 | 藤原道隆と結婚 |
974年 | 長男・伊周誕生 |
979年 | 次男・隆家誕生 |
980年 | 三男・隆円誕生 |
982年 | 長女・定子誕生 |
989年 | 藤原道隆が内大臣に就任 |
990年 | 藤原道隆が関白に就任 |
990年 | 藤原道隆が摂政に就任 |
990年 | 娘・定子が一条天皇の中宮に立てられる |
990年 | 正三位に昇叙 |
992年 | 長男・伊周が権大納言に就任 |
994年 | 長男・伊周が内大臣に就任 |
995年 | 夫・藤原道隆が病死 |
996年 | 長徳の変 |
996年 | 長男・伊周と次男・隆家が左降・配流 |
996年 | 病を得て薨去。享年40代 |
高階貴子が残した【小倉百人一首】の歌とその意味を解説
【結論】高階貴子の「小倉百人一首」の歌は
「忘しの 行末まては かたけれは けふをかきりの 命ともかな」
です
高階貴子の歌が、小倉百人一首の54番に選ばれています。
これは、恋しい人から「あなたを忘れない」と言われた女性の気持ちを歌った言葉です。
「いつまでもあなたを忘れない。あなたへの愛は変わらない。
そう言ってくれたあなたの気持ちが変わらないことなど、とても難しいことでしょう。
いずれ私のところへ来てくれることもなくなるはず。
それならば、幸せな言葉をいただいた今日という日に、私の命が終われば良いのに」
この歌は、高階貴子の夫・藤原道隆との新婚の頃に詠まれた歌のようです。
当時は夫と妻が一緒に暮らすのではなく、妻の家に夫が通うという形でした。
なぜなら一夫多妻なので、複数の妻の家を渡り歩かなくてはいけないのです。
貴子は、道隆とのあいだに、三男四女を産んでいます。
道隆には他にも複数の妻がいました。
しかし貴子は、それでもかなりの寵愛を受けたものと思われます。
高階貴子の【子孫】を現在にいたるまで解説
【結論】高階貴子の子孫には、元首相・細川護煕さん、そして平清盛の継母・池禅尼や、南北朝時代の坊門清忠がいる
貴子の子孫は、伊周・隆家という二人の子を通じて、現在に続いています。
伊周の娘が、道長の息子に嫁ぎ、子供を産んでいるのです。
その子孫を通じて、五摂家とよばれる藤原氏の五つの家に、子孫がつながっています。
そのひとりが、元首相の細川護煕さんです。
細川護煕さんの祖父は、近衛文麿という元総理大臣です。
終戦直後に自決した近衛文麿の孫・細川護煕さんも、藤原氏の末裔である五摂家筆頭・近衛家の子孫というわけです。
また、隆家を通じても、子孫が続いています。
隆家の子孫は今も続いているわけですが、歴史上もっとも有名な隆家の子孫といえば、平清盛の継母・池禅尼でしょう。
平清盛の父・平忠盛の継室であり、清盛の母代わりだった女性です。
平治の乱で源頼朝が清盛にとらわれると、池禅尼は、夭折した自分の子である家盛に瓜二つだと言って、清盛に助命を嘆願したのです。
その後、頼朝に平家は滅ぼされますが、池禅尼の子・平頼盛は生き残り、子孫が池氏と名乗って、今も続いています。
また、隆家の子孫には、別系統で坊門清忠という人物がいます。
南北朝時代に、後醍醐天皇に仕えた人物です。
湊川の戦い直前、名将・楠木正成が、九州から進軍する足利尊氏の大軍団を相手に、京都へ誘き出す作戦を立案。
しかし坊門清忠はこれに反対し、楠木正成は湊川の戦いに出撃させられ、戦死するのでした。
そして定子の子孫ですが、三人の子を産んだ定子ですが、その子孫は繁栄することができなかったのでした。
高階貴子の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】高階貴子の死後、娘である藤原定子の死、という事件が起こりました。
高階貴子が亡くなった5年後の1001年、貴子の娘で一条天皇の后となっていた藤原定子が亡くなります。
定子は、一条天皇の寵愛を受け、一男二女を儲けました。
しかし次女・媄子内親王を出産した直後に亡くなったのでした。
伊周が左遷、定子がなくなり、隆家も左遷。(隆家は病気を理由に途中までしか行かなかった)
貴子の三人の子は、すべてドン底に叩き落とされたのでした。
これ以後、高階貴子と藤原道隆の家「中関白家」は、もはや立ち直れないほどに没落していきます。
しかし唯一の希望がありました。
それは定子が産んだ敦康親王が天皇となれば、それを補佐することで、伊周と隆家が復権する可能性があったことです。
一条天皇は、何度も敦康親王を皇太子にして、天皇の位につかせようとします。
しかしこれを、藤原行成が何度も説得して止めたのでした。
敦康親王の母の実家である中関白家は、すでに没落しているためです。
母の実家という後ろ盾のない敦康親王では、天皇に即位してもすぐに権力者・藤原道長に引きずり下ろされるだろうというのです。
藤原伊周は、1010年に病死。
残された隆家は、刀伊の入寇という、九州で起こった海賊の襲撃を撃退。
そこで名を挙げたものの、甥の敦康親王の即位がかなわず、復権できませんでした。
こうして高階貴子の家は、夫・道隆が生きているうちは繁栄しました。
しかし995年に、道隆が急死してしまうと、一気に没落していくのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,高階貴子の『死因』は?
死因は、病気
2,高階貴子が【亡くなった日時】は?
- 西暦996年(長徳2年10月頃)に亡くなった、享年不明だが、40代であると考えられる
3,高階貴子の【最後の様子】とは?
最後の様子は、伊周・隆家という息子たちが左遷され、失意のうちに亡くなった
4,高階貴子の【残した歌】とは?
「忘しの 行末まては かたけれは けふをかきりの 命ともかな」という小倉百人一首の一つに数えられた歌を残した
5,高階貴子の【子孫】とは?
子孫は、元首相・細川護煕さん、池禅尼、坊門清忠など
6,高階貴子の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、娘・藤原定子の死、という事件が起こった
以上となります。
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