この記事では、島津久光の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
記事内容をかんたんにまとめると以下のとおりです。
- 島津久光の死因は病死。病名は不明だが、風邪をひいたあと、腹痛と下痢をおこして衰弱死した。
- 亡くなった日は、1887年(明治20年)12月6日。享年70歳。
- 久光は、江戸幕府滅亡のあと、自分が幕府を開くつもりだったらしいが、大久保利通や西郷隆盛が明治政府をつくったため、大久保や西郷を恨んで死んでいった
さらにくわしい内容については、以下の本文で解説いたしております。
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島津久光の【死因】と【亡くなった日】
島津久光の【死因】
島津久光の死因なのですが、【病死】です。
作家・芳即正(かんばし のりまさ)さんの著書「島津久光と明治維新」によれば、久光は腹痛を下痢で衰弱していき、亡くなったようです。
- 久光は、亡くなる5ヶ月ほど前の【1887年(明治20年)7月】風邪をひいていたようです。
- その風邪は、9月ごろに回復したものの、【1887年(明治20年)10月5日夜】に、腹痛・発熱・下痢をおこし、それ以後、病勢は日に日に重くなっていった様子です。
- 【10月22日】、朝廷から侍医・岩佐純が派遣されて診察してもらったが、体調はよくならなかったようです。
- 【11月5日】、朝廷は久光に対して、菊花大綬章という勲章を授与。このとき久光は、病床から身を起こして、その沙汰を受けたといいますが、それを最後に、久光は二度と立ち上がれませんでした。
- 【12月6日】、島津久光は安らかに、その生涯を閉じたのでした。
島津久光が【亡くなった日】と【享年】
【1887年(明治20年)12月6日】
享年70歳
島津久光の【最後の様子】とは?西郷と大久保を恨んでいた!
島津久光は、西郷隆盛と大久保利通を生涯にわたって憎み、恨み抜いていました。
薩摩藩の最高権力者だった島津久光は、徳川幕府を倒して明治維新を成功させ、自らがトップに君臨する「島津幕府」をつくろうとしていたのです。
徳川幕府を倒すという目論見は、島津久光の参謀をつとめていた大久保利通や、名将・西郷隆盛の活躍により成功しました。
しかし、その後の日本は島津久光の思い描いていたようには、まったく進まなかったのです。
日本は島津幕府などではなく、大久保利通を中心にして成立した明治新政府という、天皇を中心とする近代的な政府によって支配されることとなったのです。
島津久光たち武士は、廃藩置県や廃刀令で次々と特権を失っていったのです。
「俺は西郷と大久保に騙された」
島津久光は、生涯に渡ってこの言葉を口にし続け、ちょんまげを切ることも、刀を帯びることも、和服もやめず、ただただ故郷の鹿児島で余生を送ったのでした。
政府は島津久光に大変気を使って接していたようですが、明治10年に西郷隆盛が亡くなり、明治11年に大久保利通が亡くなると、その気遣いすらもなくなってしまったようです。
島津久光の疑惑!兄・斉彬を毒殺した?
島津久光には、、名君との評価も高い異母兄・島津斉彬(なりあきら)を毒殺したという疑いがかけられているのです。
実際、久光の兄・斉彬は不審なほどに急な死に方をしているのです。
そして兄の斉彬が亡くなったことでもっとも得をしたのは、兄の死後に薩摩藩の実権を握った弟・久光なのです。
斉彬に心酔していた西郷隆盛は、「久光が斉彬を毒殺した」と確信していたらしく、最期まで島津久光を嫌っていました。
「久光様は田舎者です」
と、西郷隆盛が島津久光に対して言い放ったというエピソードは、かなり有名です。
ただ、島津斉彬が急死した真相は、現在でも謎のままです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
- 島津久光の『死因』は?
死因は【病死】。
詳しい病名は不明だが、風邪をひいた後に腹痛と下痢を起こして衰弱して亡くなったという。 - 島津久光が【亡くなった日時】は?
【1887年(明治20年)12月6日】
享年70歳 - 島津久光の【最後の様子】とは?
島津久光は島津幕府をつくって日本を支配しようとしたが、大久保利通たちは明治新政府をつくって、島津幕府を許さなかった。
そのため久光は西郷と大久保を恨んでおり、「西郷と大久保に騙された」と、生涯に渡って二人を恨み続けて亡くなった。
以上となります。
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