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【大久保利通】の最後と死因をわかりやすく解説!暗殺事件の詳細と最後の言葉とは

大久保利通の【死因】や【最後の様子】について、簡単に、ひと目で分かるようにまとめました。

大久保利通の最期と死因について、簡単に解説すると、以下の通りです。

この記事を短く言うと

 

1,大久保利通の『死因』は?

大久保の死因は【暗殺】

刀による16か所にも及ぶ傷を負わされ、そのうち8か所の傷は頭部に集中していたという

 

2,が【亡くなった日時】は?

【1878年(明治11年)5月14日午前8時30分頃】

享年47歳

 

3,の【最後の言葉】とは?

大久保は、暗殺犯・島田一郎に、「無礼者!」と一喝したらしいが、これが最後の言葉となった

 

4,の【最後の様子】とは?

島田一郎によって馬車から引きずり出された大久保は、島田に刺され、苦痛からか無念からか、凄まじい形相で亡くなった。

これを読んで、大久保利通の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。



専門サイト「最期と死因ドットコム」へようこそ。

どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。

大久保利通の【死因】と【亡くなった日】

大久保利通の【死因】

大久保利通の死因は【暗殺】です。

《大久保利通》
「引用元ウィキペディアより」

不平士族たちに襲撃され、亡くなったのです。

現在の東京赤坂周辺、上智大学の近くにあった紀尾井坂というところで、大久保利通は、6名の不平士族たちに襲撃されました。

大久保は、全身16か所に刀傷を受けており、そのうち半分の8箇所が頭部に集中していたといいます。

犯人は以下6名の不平士族。

  • 島田一郎
  • 長連豪
  • 杉本乙菊
  • 脇田巧一
  • 杉村文一
  • 浅井寿篤

彼ら6名の刺客は、全員が裁判で有罪判決をうけて、処刑されました。

大久保利通が【亡くなった日】と【享年】

【1878年(明治11年)5月14日午前8時30分頃】

享年47歳

大久保利通の【最後の言葉】と【最後の様子】は?

大久保の【最後の言葉】

大久保利通が最期に口にした言葉は、暗殺犯たちに対する

「無礼者!」

という一喝だったといわれています。

この一喝は、大久保利通を最初に刀で刺した暗殺犯・島田一郎に対してのものでした。

大久保の【最後の様子】

遠矢浩規さんの著書「利通暗殺」によれば、大久保利通を暗殺した島田一郎が、大久保の最後の様子について、以下のような証言を残しています。

「大久保が私のことを睨んだ顔が、ものすごく恐ろしかった。

苦痛のせいか、それとも無念だったためか、なんとも言われぬ面色は、今も忘れられない」

どうやらこの島田一郎が、大久保に致命傷を与えた人物だったようです。

あの日、紀尾井坂を馬車で通った大久保利通は、馬車の中で書類を読んでいました。

すると刺客6名に馬車が止められ、大久保は島田一郎によって馬車から引きずり出されたのです。

「無礼者」と一喝するも、島田は大久保の顔に刀で一撃をくわえ、腰を刺したとのこと。

その後、6名が刀で斬撃を加えて、大久保は命を落としたのでした。

異説!大久保は自ら馬車を降りて斬られた?

小説などでも使われている説だそうですが、襲撃を受けた大久保利通が、刺客たちに対して

「待て」

と叫んで、自ら馬車を降りてきたという説があります。

遠矢浩規さんの著書「利通暗殺」には、この異説についても解説がされていました。

馬車に刺客たちが群がるのを見た大久保利通は、彼らに向かって

「待て」

と叫び、読んでいた書類を箱にしまってから、自ら馬車を降りてきた。

あっけにとられていた刺客たちは、やがて我に返って斬りつけた。

この逸話は、事件の13日後にあたる【1878年5月27日】の東京日日新聞によって報じられた内容だそうです。

遠矢浩規さんによれば、この大久保が自ら馬車を降りてきたという説は、考えにくいとのことです。

理由は簡単で、大久保が自分から馬車を降りたのなら、馬車の外で斬られているはずです。

ところが痕跡を見ると、大久保が馬車のなかで致命傷を負わされたことは明らかであるため、自ら馬車を降りた可能性はないとのことです。

暗殺犯の動機は何だったのか?

暗殺犯たちは、大久保を暗殺した直後に、暗殺の動機が記された「斬奸状」という手紙を持って、仮御所へと自首しています。

斬奸状に記された動機は5つ

  1. 国会も憲法も開設せず、民の権利を抑圧している
  2. 法令の朝令暮改が多く、官吏の登用にはコネがつかわれている
  3. 土木事業や建築で国費を無駄遣いしている
  4. 国を憂いている志士を排して、内乱を起こしている
  5. 外国との不平等条約改正をせずにいる

これらの動機なのですが、的はずれなものもあり、身勝手な犯行であると感じます。

【大久保利通・暗殺】についての不思議な逸話!

【前島密】によれば、大久保利通は自分の死を予知していた

大久保利通は暗殺の数日前に、前島密に対してとある夢の話をしています。

「西郷隆盛と口論して、私は西郷に追われて高い崖から落ちたのだ。

自分の脳が砕けてピクピクと動いているのが、アリアリと見えた」

暗殺された大久保は、頭部に大きな損傷があり、脳が露出していたといいます。

大久保は自らの死を、予知夢で知っていたのでしょうか。

兄とも慕い、尊敬していた西郷隆盛を死なせた罪悪感が、悪夢をみせたのかもしれません。

《西郷隆盛》
「引用元ウィキペディアより」

警察のトップ【川路利良】は暗殺計画を事前に知っていた

実は、大久保利通が島田一郎たちに狙われているという情報は、大警視(警視総監)で大久保の右腕だった川路利良の耳に入っていました。

ところがこの情報を耳にした川路は、あろうことかこの情報を無視。

「(島田一郎たちのような)石川県人に何ができる」

とあざ笑ったといわれています。

数日後、大久保が暗殺されて現場に飛んできた川路利良は、涙を流しながら自らの手帳に記された6名の名前を読み上げ

「この6名が犯人に違いない」

と泣きながら叫んだと言われています。

大久保利通が亡くなった際に、懐に持っていた【西郷からの手紙】とは?

この大久保が最後に読んでいたという【西郷からの手紙】についても、遠矢浩規さんの著書「利通暗殺」に詳細に解説がされていました。

実は、大久保が最後に読んでいた書類というのは、

  1. 西郷からの手紙
  2. 天皇巡幸に際しての各県への訓事案
  3. 大久保宛の楠木正隆からの書簡

これら3つのうちの1つだろうとのことです。どうやら3つ全てに血痕が付着していたため、この中の1つを死の直前まで読んでいたのだろうといわれているようです。

東京日日新聞によると、大久保が亡くなる直前に馬車の中で読んでいた書類は、「西郷隆盛からの手紙」だったとのことです。

大久保は、西南戦争で自らの手で死なせてしまった親友・西郷隆盛から送られた手紙を、大切に保管していたというのです。

その西郷からの手紙2通の内容はというと

1通は、日本の政府が、旧幕府軍を討伐したことについて、外国でひどく評判が悪いので、なんとか良いように伝わるようにしてほしい、というもの。

もう1通は、写真好きな大久保が海外で次々と写真を撮って西郷へ送って自慢してきたために、写真嫌いな西郷が

「あんまり写りも良くないのだから、写真はおよしなさいな」

と、優しくたしなめる内容の写真でした。

大久保は西南戦争で西郷を死なせたことを、自らが亡くなる直前まで後悔していたのでしょう。

この手紙は、大久保の死後、西郷のいとこである大山巌の手に渡ったといわれていますが、その行方は現在不明となっています。

まとめ

この記事をまとめますと、以下の通り

この記事を短く言うと

 

1,大久保利通の『死因』は?

大久保の死因は【暗殺】

刀による16か所にも及ぶ傷を負わされ、そのうち8か所の傷は頭部に集中していたという

 

2,が【亡くなった日時】は?

【1878年(明治11年)5月14日午前8時30分頃】

享年47歳

 

3,の【最後の言葉】とは?

大久保は、暗殺犯・島田一郎に、「無礼者!」と一喝したらしいが、これが最後の言葉となった

 

4,の【最後の様子】とは?

島田一郎によって馬車から引きずり出された大久保は、島田に刺され、苦痛からか無念からか、凄まじい形相で亡くなった。

以上となります。

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