源俊賢の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 源俊賢の死因は、病死
- 西暦1027年7月19日(万寿4年6月13日)に亡くなった、享年69歳
- 死ぬ前に、病気が重いことを理由に出家した
- 辞世の句などは不明
- 漫画の始祖と呼ばれる鳥羽僧正という子孫がいる
- 死後、藤原道長と藤原行成の死、という歴史的事件が起こった
この記事では、源俊賢の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
源俊賢の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、源俊賢の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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源俊賢の【死因】と【最後の様子】
源俊賢の【死因】
【結論】源俊賢の死因は、病死
病名は不明ですが、亡くなる1ヶ月前に、病気が重いことを理由に出家しています。
源俊賢が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1027年7月19日(万寿4年6月13日)、享年69歳
源俊賢の【生涯年表】
源俊賢の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
969年 | 父・源高明が大宰権帥に左遷(安和の変) |
975年 | 従五位下に叙爵 |
977年 | 侍従に任官 |
984年 | 従五位上・左兵衛権佐に叙任 |
986年 | 左近衛権少将に任官 |
988年 | 右少弁兼五位蔵人に転任 |
990年 | 正五位下・右中弁 |
992年 | 蔵人頭(このとき引き立ててくれた藤原道隆への恩を、俊賢は生涯忘れなかった) |
993年 | 従四位下 |
994年 | 権左中弁 |
995年 | 参議に任ぜられ公卿に列す(このとき俊賢は、後任の蔵人頭に藤原行成を推挙。行成は俊賢に感謝し、二人は親友となった) |
996年 |
藤原道長の内覧宣旨を聞かなかったふりをした(このとき伊周は、父・道隆の後継者になれなかった) 定子の在所が焼失した際、真っ先に駆けつけた |
997年 | 伊周・隆家兄弟の恩赦・召還について最も温厚な意見を採った |
999年 | 藤原道長・倫子夫妻の春日詣に従う |
1002年 | 中宮・彰子の中宮権大夫に任官 |
1003年 | 正三位 |
1004年 | 権中納言 |
1008年 | 従二位 |
1010年 | 正二位 |
1017年 | 権大納言 |
1019年 | 権大納言を辞任 |
1026年 | 致仕を聴される |
1027年 | 出家、薨去 |
源俊賢の逸話・エピソードとを解説
【結論】源俊賢は、自分を引き立ててくれた藤原道隆への感謝を忘れず、その子である伊周・定子・隆家を生涯かばい続けた
源俊賢は、幼い頃に父・源高明が、安和の変と呼ばれる政変で失脚しています。
その黒幕は、藤原氏だったといわれているのです。
俊賢はそんな藤原氏につかえ、藤原道長の兄である道隆に引き立てられた恩を忘れなかったといいます。
上の年表をご覧いただければわかってもらえると思いますが、俊賢は道隆亡き後、その子供である伊周・定子・隆家の三人を、いつも擁護しているのです。
ただ伊周は、藤原道長のライバルです。
源俊賢は藤原道長を支えた人物なので、道長と伊周、二人のあいだをバランスよく行き来した人といわれています。
源俊賢の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】源俊賢の子孫には、平安時代後期に活躍した鳥羽僧正(法名・覚猷)という人物がいる
源俊賢の子孫には、鳥獣人物戯画を描いたとされる鳥羽僧正がいます。(鳥羽僧正は、源俊賢の孫にあたる)
鳥獣人物戯画とは、京都・高山寺に伝わる国宝で、日本最古の漫画ともいわれている作品のことです。
そのため鳥羽僧正は、「漫画の始祖」などと呼ばれることもあります。
実はこの作品、鳥羽僧正が記したということを示す証拠がないのです。
また、鳥羽僧正が亡くなったあとも描き加えられたといわれています。
そのため、鳥羽僧正が鳥獣人物戯画の作者であるという説には、疑問が産まれているのです。
また、この鳥獣人物戯画は、何の目的で記されたものなのかが不明なのです。
もしかすると、宗教的な意味や教えを記したものなのではないか、という説もあるといいます。
源俊賢の息子・源隆国も、孫の源俊明も大納言となり、三代続いて大納言になっています。
源俊賢の子孫は、他にも複数枝分かれし、現在も続いていると考えられます。
源俊賢の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】源俊賢の死後、藤原道長と藤原行成が亡くなる、という事件が起こりました。
源俊賢が亡くなった1年後の1028年、俊賢が支えた義兄・藤原道長と、親友であった藤原行成が、奇しくも同日に亡くなるという事件が起こりました。
二人とも病死です。
俊賢の妹・源明子の夫であった道長は、九体阿弥陀堂と呼ばれるお堂で、阿弥陀如来像と自分の手を糸で結び、極楽浄土へ行くことを願いながら亡くなったといいます。
俊賢が参議に昇進するとき、後任の蔵人頭に推挙した親友・藤原行成は、トイレへ行く途中で倒れて意識不明となり、そのまま亡くなったといわれています。
四納言は残り二人、藤原斉信と藤原公任です。
1035年、藤原斉信は、老衰で静かに亡くなったといいます。
1041年、藤原公任は、皮膚病が原因で亡くなりました。
こうして、藤原道長と一条天皇を補佐し、「一条朝の四納言」と呼ばれた四人の偉人は、全員がこの世を去ったのでした。
ちなみに、源俊賢の妹である源明子は、1049年まで生き、子孫は皇室と五摂家につながっています。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,源俊賢の『死因』は?
死因は、病死
2,源俊賢が【亡くなった日時】は?
- 西暦1027年7月19日(万寿4年6月13日)に亡くなった、享年69歳
3,源俊賢の【最後の様子】とは?
最後の様子は、亡くなる一月前に出家した
4,源俊賢の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は不明
5,源俊賢の【子孫】とは?
子孫は、漫画の始祖と呼ばれる鳥羽僧正という子孫がいる
6,源俊賢の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、藤原道長と藤原行成の死、という事件が起こった
以上となります。
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