藤原忯子の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原忯子の死因は、病死
- 985年8月7日に亡くなった
- 死ぬ前に、花山天皇の子供を妊娠した
- 辞世の句または最後の言葉は記録にない
- 子孫はいないが、花山天皇の子孫は最近まで続いていた
- 死後、寛和の変という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原忯子の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原忯子の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原忯子の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原忯子の【死因】と【最後の様子】
藤原忯子の【死因】
【結論】藤原忯子の死因は病死
くわしい死因は不明ですが、わずか数え年17歳で亡くなっていることから、病死であると考えられます。
藤原忯子は、亡くなったとき、花山天皇の子を妊娠していたといいます。
もしかするとそれが、母体を消耗させ、死に影響したのかもしれません。
彼女は妊娠3ヶ月のときに、つわりがひどかったのか、食事が細くなっていったといいます。
そして実家で養生したいと願ったものの、花山天皇がそれをしぶったため、妊娠5ヶ月まで帰郷できなかったのだとか。
さらには帰郷したものの、花山天皇からの強い願いにより、再び宮中へ。
戻ってきた忯子に喜んだ花山天皇は、食事もせずに添い寝をし続けたといいます。
妊娠したことによる体調の悪化と過労。
それが彼女の命を縮めたのでしょう。
藤原忯子が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦985年8月7日(寛和元年7月18日)、享年17歳
藤原忯子の【生涯年表】
- 969年・藤原為光の娘として誕生
- 984年・花山天皇の女御として入内し、寵愛を受ける
- 985年・急死する
余談かもしれませんが、藤原忯子の父・藤原為光は、藤原道長の父・兼家の弟にあたります。

藤原道長
引用元Wikipediaより
つまり、藤原忯子と藤原道長は、いとこ同士ということです。

藤原忯子の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原忯子の辞世の句、または残した言葉は不明です
藤原忯子が残した歌や最後の言葉等は、記録が残っていないので不明です。
藤原忯子の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原忯子に子孫はいない
藤原忯子は、花山天皇の子を身ごもりながらも、出産する前に亡くなってしまいました。
そのため、子孫は残っていません。
ただ、忯子を寵愛した花山天皇には、他の女性との間に子供がおり、その子孫が白川家として現代まで続いていました。

とはいえ、花山天皇はよほど忯子を気に入っていたらしく、のちにその妹である「四の宮」と呼ばれる女性のもとへ通っています。
さらに、兄である藤原斉信にも、子孫に有名人がいます。

藤原忯子の子孫はいませんが、兄・斉信や、弟・公信の子孫は、現在まで続いています。
忯子の弟・藤原公信の妻は、紫式部の娘だという説もあります。

藤原忯子の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原忯子の死後、寛和の変という事件が起こりました。
寛和の変とは、花山天皇が藤原兼家・道兼親子に騙されて、出家させられた事件です。
忯子を失った花山天皇は悲しみに暮れ、出家を望むようになります。
実は、花山天皇を邪魔に思う人物がいました。
藤原道長の父・藤原兼家です。

藤原兼家
引用元Wikipediaより
兼家は、権力を独占しようと考えており、そのために、花山天皇に天皇の位を降りてもらいたいと思っていたのです。
なぜかというと、花山天皇の次に天皇になる予定だった懐仁親王は、兼家の娘・詮子が産んだ子、つまり兼家の孫だったからです。
兼家は、孫である懐仁親王を天皇に即位させて、自分はその外祖父として、権力を独占しようとしていたのです。
そのため、兼家からすれば、花山天皇に子供が産まれようものなら、その子が新しい天皇となってしまう可能性があったため、不都合でした。
それよりも、自分の孫である懐仁親王が天皇になった方が、好都合だったのです。
そんなとき、藤原忯子が子供を産まないままに病死します。
さらに兼家は追い討ちをかけます。
忯子を失って悲しむ花山天皇を説得して出家させるようにと、兼家は息子の藤原道兼に命じたのです。
道兼は、花山天皇を言葉巧みに出家へと誘い、山科の元慶寺で出家させてしまうのです。

花山天皇
引用元Wikipediaより
このとき道兼は、花山天皇と一緒に出家すると約束していましたが、道兼は出家せず、花山天皇はだまされた形となったのです。
こうして懐仁親王が即位して一条天皇となり、藤原兼家は摂政として権力を独占。
藤原氏の栄華の土台が、こうして固まったのです。

花山天皇はその後、藤原忯子の妹にあたる「四の君」と呼ばれるひとりの女性を寵愛するものの、その女性が理由で騒動が勃発します。
藤原兼家の孫・伊周と隆家の兄弟が、出家して法皇となった花山法皇を襲撃したのです。
実は伊周は、「四の君」の姉「三の君」を愛妾としていました。
ところが伊周は、「三の君」が何者か(花山法皇のこと)と浮気をしていると勘違いしたのです。
伊周は、乱暴者で有名な弟・隆家に相談。
すると隆家は、弓で花山法皇の袖を射抜いてしまいます。(長徳の変)
その後、花山天皇は表舞台に立つことなく、静かに亡くなるのです。

ちなみに、この事件がきっかけで、伊周も隆家も左遷され、ライバルだった藤原道長が権力を独占するのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原忯子の『死因』は?
死因は病死
2,藤原忯子が【亡くなった日時】は?
西暦985年8月7日(寛和元年7月18日)、享年17歳
3,藤原忯子の【最後の様子】とは?
最後の様子は、花山天皇の子供を妊娠したまま亡くなった。
4,藤原忯子の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は不明
5,藤原忯子の【子孫】とは?
子孫はいない
6,藤原忯子の【死後に起こった出来事】とは?
死後に寛和の変という事件が起こった
以上となります。
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