鬼の副長と呼ばれた偉人【土方歳三】の死因や最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
記事内容をかんたんにまとめますと、以下のとおりです。
- 土方歳三の死因は、敵にお腹を撃ち抜かれたため。箱館戦争(戊辰戦争)で亡くなった。
- 亡くなった日は、1869年6月20日。享年35歳。亡くなった場所は、現在の北海道函館市(箱館)の一本木関門という場所。
- ご遺体は行方不明となっているが、五稜郭に埋葬されて、その後別の場所へ移動したというが、どこへいったのかはわかっていない。
以下で、土方歳三の最期について、さらにくわしく解説いたします。
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この記事を短く言うと
1,土方歳三の『死因』は?
土方歳三の死因は【お腹を銃で撃ち抜かれたことによる戦死】
その他にも、「味方に撃ち殺された」という説がある。
2,土方歳三が【亡くなった日】と【最後の様子】とは?
1869年6月20日(明治2年5月11日)午前10頃
享年35歳(満年齢34歳)
箱館戦争で、一本木関門という場所を守備しているときに、馬上で味方の軍を指揮しているところ狙撃され亡くなった
3,土方歳三が【亡くなった場所】と【お墓の場所】はどこにあるの?
土方歳三が亡くなった場所は、北海道函館市若松町にある【一本木関門】と呼ばれるところ。
お墓は、東京都日野市の石田寺。
4,土方歳三の【死因】と【お墓】について語られている【もう一つの説】とは?
土方歳三は、味方から背中を撃たれて亡くなったという説がある。
また、土方が埋葬されたのは五稜郭であり、その後、願乗寺という場所に改装されたともいわれている。
土方歳三の【死因】と【味方に撃たれた説】とは?
土方歳三の【死因】
土方歳三の死因は、敵兵に【銃でお腹を撃たれたこと】によるものといわれています。
土方歳三が亡くなった《箱館戦争》とは何か?
土方は、【1869年(明治2年)】に行われた箱館戦争で戦死しています。
この当時、日本では薩摩・長州を中心とする新政府軍と、消滅した江戸幕府の軍であった旧幕府軍が、戊辰戦争と呼ばれる戦争で戦っていました。
旧幕府軍に味方していた土方歳三は、この戊辰戦争の最後の戦いであった箱館戦争で、新政府軍の兵士にやられたのです。
土方歳三の死の真相!味方に撃たれて亡くなった?
実は土方歳三には、【味方に撃ち殺された】という不思議な説があります。
味方に撃ち殺されたというのなら土方歳三は、味方に腹部を撃たれて亡くなったことになります。
お腹ではなく、【背中を撃たれ】て亡くなったという説もあります。
実は、土方歳三が【味方に背中を撃たれた】という説は、土方歳三の【ご遺体の行方】とも関係しているのです。
土方歳三の【遺体】が行方不明だった!
土方歳三のご遺体ですが、実は行方不明となっています。
ご遺体の行方については、諸説ありますが、五稜郭に埋葬された後、願乗寺(現在の本願寺函館別院)に改葬されたともいわれています。
なぜ土方歳三のご遺体が行方不明となったのか?
その理由は、腹部を撃たれて亡くなったはずの土方歳三の背中に、銃撃された傷が残っているからではないか、といわれているのです。
土方の背中に銃撃の傷があったとしたら、それは土方歳三が背後から撃たれたことを意味しています。
つまり背中を撃たれたとしたら、土方は味方に裏切られて亡くなったということです。
味方に裏切られた事実を隠そうとした何者かによって、土方のご遺体は隠されたのではないか、というわけです。
土方は箱館戦争において、味方を奮い立たせるために、「逃げる者は殺す」と脅していたといいます。
それに激怒した味方に裏切られて亡くなったということでしょう。
- 【鬼と呼ばれるほど味方から恐れられたいた・憎まれていた】
- 【ご遺体が見つからない(背中に傷があるのかもしれない)】
信憑性には乏しいかもしれませんが、この2つの状況証拠によって、こんな噂がされているのでしょう。
土方歳三が【亡くなった日】と【最後の様子】とは?
【亡くなった日】と【享年】
1869年6月20日(明治2年5月11日)午前10頃
享年35歳(満年齢34歳)
【最後の様子】と【死んだ場所】
土方歳三は、箱館戦争で一本木関門という場所をまもって戦っていたときに、敵兵に腹部を撃たれて落馬し、そのまま亡くなったといいます。
【1869年(明治2年)】、土方歳三は現在の北海道函館にある五稜郭という要塞にこもって、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と戦っていました。
旧幕府軍をひきいる司令官の一人だった土方歳三は、敗北寸前の状態においこまれても諦めず、奮戦を続けていました。
【1869年6月20日(明治2年5月11日)】、新政府軍が総攻撃を仕掛けてきたため、土方は出陣。
箱館の一本木関門という場所を守っていた土方は
「逃げる者は斬り殺すぞ!」
と叫びながら、馬に乗って味方を指揮していました。
午前10時頃、土方の腹部に銃弾が命中し落馬。
旧幕府軍は敗北して撤退し、土方歳三の様子を味方が確認したときには、すでに絶命していたといいます。
通説では、米田幸治という人物が土方を狙撃したとされています。(または、タイチという名前の猟師が撃ったともいわれています)
翌日、新選組隊士だった安富才助は、土方の最期の様子について手紙を書き、土方の実家へと送っています。
「一本木関門で諸隊を指揮していたが、そこで戦死された。とても残念です。」
と、その手紙には記されていました。
土方歳三の最後の地には現在、土方歳三の死を悼む碑が建てられています。
土方歳三の死後に起こったこと
土方歳三が亡くなった7日後の【1869年6月27日(明治2年5月18日)】、五稜郭に籠城していた旧幕府軍は降伏し、箱館戦争・戊辰戦争は終結します。
旧幕府軍として戦っていた榎本武揚や相馬主計らは、新政府軍に降伏。
のちに第2代内閣総理大臣となる黒田清隆が、必死に説得したことで降伏を決意した土方の盟友・榎本武揚は、投獄されたのち、外務大臣など明治新政府の要職を歴任。
日本はその後、廃藩置県や廃刀令などで、元武士たちの特権を次々と剥奪し、四民平等を実現していきます。
元武士たちの特権を次々と奪ったことで、元武士たちは激怒。
彼らは西郷隆盛を旗頭として挙兵し、明治政府に対して反乱を起こします。
【1877年(明治10年)】、西南戦争によって西郷隆盛が戦死。
こうして武士の世は完全に終わることとなります。
余談かもしれませんが、この西南戦争に、土方歳三とともに戦った新選組三番組長・斎藤一が、明治政府軍として参戦していました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,土方歳三の『死因』は?
土方歳三の死因は【お腹を銃で撃ち抜かれたことによる戦死】
その他にも、「味方に撃ち殺された」という説がある。
2,土方歳三が【亡くなった日】と【最後の様子】とは?
1869年6月20日(明治2年5月11日)午前10頃
享年35歳(満年齢34歳)
箱館戦争で、一本木関門という場所を守備しているときに、馬上で味方の軍を指揮しているところ狙撃され亡くなった
3,土方歳三が【亡くなった場所】と【お墓の場所】はどこにあるの?
土方歳三が亡くなった場所は、北海道函館市若松町にある【一本木関門】と呼ばれるところ。
お墓は、東京都日野市の石田寺。
4,土方歳三の【死因】と【お墓】について語られている【もう一つの説】とは?
土方歳三は、味方から背中を撃たれて亡くなったという説がある。
また、土方が埋葬されたのは五稜郭であり、その後、願乗寺という場所に改装されたともいわれている。
以上となります。
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