赤染衛門の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 赤染衛門の死因は、不明だがおそらく老衰か病死
- 西暦1041年以後(長久2年以後)に亡くなった、享年不明
- 死ぬ前に、ひ孫の誕生を祝う歌を詠んだ
- 「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」という辞世の句または言葉を残した
- 子孫は、大江匡房・大江広元・毛利元就などがいるという子孫がいる
- 死後、後朱雀天皇の崩御、という歴史的事件が起こった
この記事では、赤染衛門の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
赤染衛門の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、赤染衛門の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
赤染衛門の【死因】と【最後の様子】
赤染衛門の【死因】
【結論】赤染衛門の死因は、不明
赤染衛門の子孫は不明です。
しかし、亡くなった頃の年齢を考えると、おそらく老衰だろうと考えられます。
亡くなったのは、85歳を過ぎた後でしょう。
病死という可能性もありますが、病名はわかっていません。
赤染衛門が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1041年の以後(長久2年以後)、享年不明
赤染衛門がいつ亡くなったのかは、不明です。
それどころか、いつ産まれたのかも正確にわかっていません。
そのため、享年も不明です。
956年頃に産まれたと考えられています。
そのため、亡くなったのは、85歳を過ぎた後ということになります。
かなりの長寿だったことがわかります。
1041年に、ひ孫が誕生したことを喜ぶ歌が、後拾遺和歌集に載せられていますが、この歌を詠んだのを最後に、消息が途絶えています。
赤染衛門の【生涯年表】
赤染衛門の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
天暦10年(956年)頃 | 誕生 |
貞元年中(976-978年) | 文章博士・大江匡衡と結婚 |
長和元年(1012年) | 夫・大江匡衡が逝去 |
長元8年(1035年) | 関白左大臣・頼通歌合に出詠 |
長久2年(1041年) | 弘徽殿女御・生子歌合に出詠 曾孫の誕生を祝う和歌を詠んだ後、消息が途絶える |
赤染衛門が残した【有名な歌】とその意味を解説
【結論】赤染衛門が残した有名な歌に
「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」
です
百人一首でも有名な赤染衛門の歌です。
意味は以下の通りです。
「あなたがお越しにならないことがわかっていたら、あーだこーだと考えたりせず、早く寝てしまえばよかったです!
あなたを待っているあいだに夜も遅くなり、西に傾いて沈んでいく月をみることになりましたよ」
この歌は、藤原道隆が赤染衛門の姉妹の家に通う予定であったのに、すっぽかしたときの歌です。
赤染衛門は、姉妹の気持ちを代わりに歌ったといわれています。
藤原道隆は、かなりの美男子だったといいます。
その道隆への恨み言のような歌が、後世まで残っているのです。
そんな道隆は、酒癖が悪かったのか、早くに亡くなっています。

赤染衛門の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】赤染衛門の子孫には、平安時代の大江匡房、鎌倉時代の大江広元、戦国時代の毛利元就という人物がいる
赤染衛門の子孫には智将が多く、戦国時代に中国地方を制覇した謀神・毛利元就がいます。
まず、赤染衛門の消息が途絶える直前、産まれたひ孫とは、おそらく大江匡房のことだと考えられます。
(赤染衛門のひ孫誕生の祝いの歌が、大江匡房が産まれた1041年に詠まれている)

大江匡房
引用元Wikipediaより
大江匡房とは、兵法に詳しい学者でした。
源氏の名将・源義家に対して
「兵法を知らないな」
と言い放ち、源義家の部下たちを激怒させたことで有名です。
しかし源義家は謙虚に大江匡房から兵法を学び、後三年の役で大勝したといいます。
その大江匡房のひ孫が、大江広元です。

大江広元
引用元Wikipediaより
ですので大江広元は、赤染衛門のひ孫のひ孫にあたるわけです。
鎌倉幕府の参謀として活躍。
源頼朝亡き後、二代将軍・源頼家を支えるため組織された「十三人の合議制」のひとり。
1221年の承久の乱では、鎌倉で後鳥羽上皇の軍を迎撃する作戦が主張される中、大江広元はただ一人だけ、京都へ進軍するべきと主張。
その作戦が採用されて、北条泰時たち、わずかに18騎が出撃。
結果は北条泰時の軍団の圧勝に終わったのです。
承久の乱が起きた時、北条義時の自宅に雷が落ち、義時は悪い前触れなのではないかと恐怖します。
しかし大江広元は、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼした際にも落雷があったが、大勝したので、これは吉兆だと言って、義時をはげましたといいます。
その大江広元の子孫が、戦国時代の名将・毛利元就です。
元就は、安芸国(広島県)に産まれた小豪族の次男でした。

毛利元就
ウィキペディアより引用
元就は、山陽地方の大内氏と、山陰地方の尼子氏という、二大勢力に挟まれ、両者のあいだを泳ぎ回るように生きていました。
ところが、元就はこの大内と尼子という二大勢力を、圧倒的な弱小勢力であるにも関わらず、倒してしまったのです。
織田信長が、やっと尾張と美濃の2カ国を支配していたとき、元就は中国地方10カ国を制覇していました。
その後、毛利家の家督は、元就の孫・毛利輝元に継承されます。
関ヶ原の戦いで敗北した輝元は、4分の1に領地を削減されました。
幕末の時代、毛利家がひきいた長州藩は、明治維新の先駆けとなって活躍。
毛利家はその後も続き、2024年現在、毛利家の家督は32代目当主・毛利元栄さんが引き継いでおられます。
こうしてみると、赤染衛門の知性を引き継いだのか、子孫には智将が多い気がします。
赤染衛門の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】赤染衛門の死後、後朱雀天皇の崩御、という事件が起こりました。
1045年、赤染衛門が亡くなったであろう頃から数年後、後朱雀天皇が崩御されました。
この事件は、藤原氏の栄華が終わりに近づくことを意味していました。
なぜなら後朱雀天皇の次に天皇となった後冷泉天皇に、もし万が一、藤原氏を外戚(母方の実家つまり後ろ盾)とする皇子が誕生しなければ、藤原氏の思うままの政治ができなくなるからです。
後冷泉天皇には、藤原道長の子である藤原頼通の娘が嫁ぎました。
しかし、皇子は生まれなかったのです。
そのため、後冷泉天皇の異母弟である後三条天皇が即位します。

後三条天皇
引用元Wikipediaより
藤原頼通は、後冷泉天皇に皇子が産まれたら、その子を次の天皇にするつもりでいました。
その為、後三条天皇には冷たく接していたといいます。
後三条天皇は、190年ぶりに、藤原氏を外戚つまり母方の実家としない天皇でした。
まるで藤原頼通から冷たくされた恨みを晴らすかの如く、後三条天皇は、藤原氏の権力を削ぎ落とすような政治を行います。
後三条天皇が自ら行う親政と、その子である白河法皇の院政によって、藤原氏の摂関政治は崩壊し、栄華も終わりを迎えるのです。
院政によって、天皇家は藤原氏から、権力を奪い取ります。
その院政による天皇家の栄華を終わらせたのは、平清盛でした。
鹿ヶ谷の陰謀が発覚し、後白河法皇へ兵を向けようとする平清盛をいさめたのは、紫式部の子孫である平重盛でした。

平重盛
引用元Wikipediaより

まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,赤染衛門の『死因』は?
死因は不明だが、おそらく老衰か病死
2,赤染衛門が【亡くなった日時】は?
西暦1041年以後(長久2年以後)に亡くなった、享年不明
3,赤染衛門の【最後の様子】とは?
最後の様子は、不明。ひ孫の誕生を祝う歌を詠んだ後、消息不明
4,赤染衛門の【最期の言葉】とは?
残した有名な歌に、「やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな」というものがある
5,赤染衛門の【子孫】とは?
子孫は、大江匡房・大江広元・毛利元就などがいる
6,赤染衛門の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、後朱雀天皇の崩御、という事件が起こった
以上となります。
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