老中・田沼意次の長男・田沼意知の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 田沼意知の死因は、暗殺
- 西暦1784年5月20日(天明4年4月2日)に亡くなった、享年36歳
- 死ぬ前に、佐野雅言に斬られ、重傷を負った
- 死後、「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首がオランダ商館長によって世界に紹介された
- 直系子孫はいないが、弟を通じて田沼道雄さんという子孫がいる
- 死後、父・田沼意次の失脚と死、という歴史的事件が起こった
この記事では、田沼意知の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
田沼意知の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、田沼意知の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
田沼意知の【死因】と【最後の様子】
田沼意知の【死因】
【結論】田沼意知の死因は、暗殺
田沼意知は、佐野雅言という人物に暗殺されたことによります。
江戸城内で、田沼意知は佐野雅言に
「覚えがあろう」
と三回叫ばれたあと、斬られたといいます。
重傷を負い、そのうえ手当が遅れ、8日後に田沼意知は亡くなりました。
佐野の動機は様々あるといわれています。
田沼意知と父の田沼意次が、先祖を粉飾するために、足利氏の佐野雅言から家系図を借りたまま返さなかったこと
賄賂を送ったのに佐野が出世できなかったこと
佐野の領内にある佐野大明神という神を、横領して田沼大明神にしたこと
などなど。幕府は乱心つまり精神障害であると結論づけ、佐野を切腹させています。
その後、田沼意次と意知親子が庶民から嫌われていたため、佐野は「世直し大明神」と呼ばれて褒め称えられたといいます。
田沼意知が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1784年5月20日(天明4年4月2日)、享年36歳
田沼意知の【生涯年表】
田沼意知の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
1748年 | 遠江国相良藩主・田沼意次の嫡男として誕生 |
1767年 | 従五位下・大和守に叙任 |
1781年 | 奏者番となる |
1783年 | 若年寄となる |
1784年 | 佐野政言に斬りつけられ負傷 |
1784年 | 傷がもとで死亡、享年36 |
田沼意知の最期に関連した【落首】とその意味を解説
【結論】田沼意知の死に関連した【落首】が残されており、その内容は
「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」
です
この歌は、田沼意知が亡くなったあと、オランダ商館長のイサーク・ティチングという人物が、世界に紹介した落首つまり嘲笑うかのような歌です。
田沼意知と意次親子は、賄賂政治が原因でとても嫌われていました。
そのため、意知が討たれると、それをあざ笑う落首が多数登場したといいます。
ところがこの歌は、田沼意知を梅や桜のような花に例えて、それを佐野という人物に命じて斬らせたのは誰なのか?という意味になります。
あざ笑うための歌ではなく、意知を桜や梅のような、将来性ある人物と評価しているのです。
現代語訳すると、以下の通りになります。
鉢植えにして育てた梅か桜を、誰が憎く思って、佐野に斬らせたのだろうか?
イサーク・ティチングは、このように付け加えています。
田沼意知の暗殺は、幕府内の権力闘争が原因である。
幕府の首脳陣は、世界を知らず、まさに井の中の蛙だが、田沼意知は、たった一人だけ、日本の将来を真剣に考えていた。
そんな意知がなくなったことで、将来起きるはずだった開国への道は、完全に閉ざされてしまった。
1854年、日本はペリーの圧力もあって、日米和親条約をアメリカと締結して開国しています。
田沼意知が亡くなって、70年後のことです。
田沼意知の【子孫】は現在どうなっているのかを解説
【結論】田沼意知の子孫は断絶したが、弟・田沼意正の子孫が現在、田沼道雄さんに続いている。
意知が亡くなったあと、その子供たちは、若くして全員亡くなっています。
そのため、田沼家は田沼意知の弟である田沼意正が継承しています。
その田沼家を現在継承しておられるのが、田沼道雄さんです。
田沼意次は、これまでの日本史で、賄賂政治家と呼ばれて悪役とされてきました。
そのため、先祖が悪役とされる日本史の時間には、学校をサボっていたというエピソードがあるようです。
現在も、田沼意次の子孫は続いています。
しかし、その長男・田沼意知の血筋は、途絶えているのです。
田沼意知の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】田沼意知の死後、父・田沼意次の失脚と死、という事件が起こりました。
意知が亡くなった2年後、父・田沼意次が失脚し、さらにその2年後、失意のうちに意次は亡くなっています。
1786年、田沼意知が亡くなった2年後、10代将軍・徳川家治が亡くなります。
後ろ盾だった将軍・家治を失った田沼意次は、領地の大半を没収された上に、蟄居つまり謹慎をさせられます。
1788年、田沼意次は、失意のうちに亡くなります。
ライバルであった松平定信が、その後老中となって、寛政の改革と呼ばれる緊縮政策を行うのです。
ところが、松平定信の緊縮政策は、あまりにも厳しいものでした。
なんと庶民にまで、贅沢や遊びを制限するものだったといいます。
寛政の改革に苦しんだ人々は、田沼の時代の方が良かったと、人々は嘆いたといいます。
たとえば、出版業者の蔦屋重三郎は、松平定信の寛政の改革によって、事業規模を半分以下に縮小せざるを得なくなったといいます。
松平定信の死に際して、出版業者は一斉に、松平定信をあざけりわらう内容の一枚紙を世に広めたといいます。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,田沼意知の『死因』は?
死因は、佐野雅言による暗殺
2,田沼意知が【亡くなった日時】は?
西暦1784年5月20日(天明4年4月2日)に亡くなった、享年36歳
3,田沼意知の【最後の様子】とは?
最後の様子は、佐野雅言に斬られ、重傷を負った8日後に亡くなった
4,田沼意知の【死後に世界に紹介された落首】とは?
死後、「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首がオランダ商館長によって世界に紹介された
5,田沼意知の【子孫】とは?
直系子孫はいないが、弟を通じて田沼道雄さんという子孫がいる
6,田沼意知の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、父・田沼意次の失脚と死、という事件が起こった
以上となります。
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