三浦按針またの名をウィリアム・アダムスの【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 三浦按針(ウィリアム・アダムス)の死因は病死
- 元和6年4月24日(1620年5月26日)に亡くなった。享年55歳
- 死ぬ前に遺言を残して、使用人にまで財産を分け与えている。
- 辞世の句などは残していない。
- デリヴァレンスやジョゼフといった子どもがいるが、他にも子どもがいた
- 死後、元和の大殉教という歴史的事件が起こった
この記事では、ウィリアム・アダムスの最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
ウィリアム・アダムスの最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、ウィリアム・アダムスの最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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三浦按針(ウィリアム・アダムス)の【死因】と【最後の様子】
三浦按針(ウィリアム・アダムス)の死因
【結論】三浦按針(ウィリアム・アダムス)の死因は病死
結論から言うと、三浦按針(ウィリアム・アダムス)の死因は、病死であると考えられています。
くわしい死因は判明していません。
しかし近年、長崎県平戸市の墓地で出土した人骨が、三浦按針の遺骨である可能性が高いことが判明しました。
そのため、今後DNA分析などで詳しい死因が明らかとなるのではないでしょうか。
三浦按針(ウィリアム・アダムス)が【亡くなった日】と【享年】
【結論】元和6年4月24日(1620年5月26日)、享年55歳。
三浦按針(ウィリアム・アダムス)の子孫の現在
三浦按針の子供達一覧
【結論】三浦按針(ウィリアム・アダムス)には数名の子どもがいた
三浦按針(ウィリアム・アダムス)の子孫は、残念ながら消息不明です。
アダムスの息子である三浦按針2世には、子どもがいなかったとされています。
女優の樹木希林さんの父親は、三浦按針の三浦家へ婿養子だったのだとか。
しかしその真偽は不明です。
ここでは、三浦按針の子供達について解説いたします。
もしかすると、三浦按針の子供たちが、子孫を現在に伝えているかもしれません。
娘・デリヴァレンス
1618年(元和4年)9月30日、彼女は船員であるラルフ・グッドチャイルドと結婚しました。
1624年(元和8年)8月13日付の東インド会社役員議事録に、父アダムスの遺産に関する娘デリヴァレンスの請願が記録されています。
これによると、デリヴァレンスは会社に対して、本国に送られた父の遺産を支払うように会社に督促しています。
この請願から2か月後の同年10月13日、デリヴァレンスはジョン・ライトと再婚しました。
それ以降の消息は判明していません。
また、イギリスにいたアダムスのもう一人の息子ジョンについての言及は皆無です。
ジョゼフ(三浦按針2世)
父・ウィリアム・アダムスの死後、ジョゼフが父の財産の半分と領地を継承しました。
寛永元年(1624年)頃、父「三浦按針」の名を継いで、貿易に従事するようになります。
そして、寛永元年(1624年)・同9年(1632年)・同11年(1634年)・同12年(1635年)と「三浦按針」の名で朱印状の発行を受けました。
イギリス商館が閉館されてからも、ジョゼフは平戸や長崎に頻繁に来航して、オランダ商館員や日本人有力商人と親しく交流しながら、貿易に励みました。
その後、ジョゼフの正確な死没年は不明です。
しかし寛文3年(1663年)、ジョゼフの領地だった逸見村が、その当時の幕府老中・酒井忠清の領地となっています。
ですので、ジョゼフは1663年より以前に死去したと考えられています。
スザンナ
スザンナも父の遺産の半分を継承したため、生活に困ることはなかったと考えられます。
元和2年(1616年)にコックスが江戸に参府したとき、逸見で母と兄と共に出迎えたり、元和8年(1622年)にはコックスに招待されて、江戸で歌舞伎鑑賞をしたりしています。
しかし、スザンナに関する史料は乏しく、生年をはじめとして、どのような生涯を送ったのかは不明です。
平戸の遺児
アダムスの死から9か月後、幼子を連れた女性がイギリス商館を訪ねてきました。
アダムスが平戸でもうけた「隠し子」ですが、この子についてはわずかに『イギリス商館長日記』に次の2つの記事が残っているだけです。
◯1621年2月20日、キャプテン・アダムスの平戸で生まれた子がその母親に連れられて私のところに来た。
だから私は彼女に小粒銀20匁を与え、かつ、もしその子をイギリス国民の保護に委ねるつもりなら、学校に上げる費用を支払う旨を彼女に申し出た。
◯1621年4月16日、キャプテン・アダムスの子供とコア・ジョンの子供の長上衣の裏打ちをするため、日本産の琥珀(織)2反の代金として銀21匁を支払った。
樹木希林さんは、三浦按針の子孫なのか?
女優・樹木希林さんの父方の実家である三浦家は、三浦按針の子孫だと、樹木希林さん本人がおっしゃっておられたようです。
しかし、専門家が言うには、三浦按針の家系はすでに途絶えているのだとか。
それ以前から存在する三浦家が、樹木希林さんの先祖なのではないかと、その専門家の方はおっしゃっておられました。
三浦家といえば、神奈川県三浦半島を拠点とした、鎌倉時代の智将・三浦義村を思いだします。
もしかすると樹木希林さんは、三浦義村の子孫なのかもしれませんが、確証はなにもありません。
→→→→→【三浦義村の子孫と家系図】についてくわしくはこちら
【三浦按針(ウィリアム・アダムス)の生涯と最期】をザッと解説
三浦按針(ウィリアム・アダムス)の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
生い立ちと青年時代
永禄7年(1564年)9月24日、ウィリアム・アダムスは、現在のイギリスのイングランド南東部のケント州ジリンガムで生まれました。
天正4年(1576年)、アダムスはロンドンテムズ川北岸のライムハウスにて、船大工の修業を始めます。
同16年(1588年)に船大工の奉公の年限を終えると、海軍に入ります。
そして、同年行われた英国(イギリス)とスペインが覇権をかけて戦った、スペイン無敵艦隊との【アルマダの海戦】に参加しました。
この頃の英国女王は、有名なエリザベス1世です。
この戦いでアダムスは、イギリス軍の補給船の船長として、前線と港を往復していたのです。
海戦の終結後まもなく、アダムスはバーバリ会社に就職します。 (バーバリ会社とは、女王エリザベスにより認可された40の貿易会社の1つで、イギリスとモロッコ間の貿易独占権を持った)
同17年(1589年)8月20日、アダムスは、メアリ・ハインと結婚し、娘デリヴァレンスと息子ジョンを得ました。
リーフデ号航海と日本漂着
東インドへの大航海にパイロット(水先案内人)として参加することになったアダムスは、オランダのロッテルダムへ向かいます。
そこで、慶長3年(1598年)6月24日、アダムスは当初、5席からなる船団の内、ホープ号の航海士として出航しました。
途中、アフリカ西端のカーボ・ヴェルディ諸島などを攻略しつつ、慶長4年(1599年)9月3日、マゼラン海峡を抜け太平洋に入りました。
同月23日、司令官の死に伴い、アダムスはリーフデ号に移ったと考えられています。
その後、他4隻が離脱・沈没・拿捕されながらも、慶長5年(1600年)4月19日、リーフデ号は豊後(現在の大分県)に漂着しました。
日本漂着後!三浦按針の最期!
慶長5年(1600年)5月12日、アダムスらは大坂に移送され、徳川家康と会見します。
アダムスらはしばらく投獄されました。
しかし誤解が解け、同年6月22日には解放されます。
7月22日、堺を出航し浦賀へと向かいました。
慶長8年(1603年)、この頃アダムスは日本人妻を迎えます。
年末、江戸湾係留中であったリーフデ号が沈没すると、アダムスは船大工としての経験を買われ、家康より西洋船建造を依頼されました。
そして慶長9年(1604年)、アダムスは80トンの西洋船を完成させました。
これにより、アダムスは家康よりさらなる大型船の建造を指示されるのです。
慶長11年(1606年)には120トンの西洋船を完成させています。
さらに翌年には試験航行(浦賀・堺間)を実施しています。
慶長13年(1608年)、これらの功績により、アダムスは家康より250石の旗本に取り立てられ、相模国逸見の地を与えられました。
また、この際に「三浦按針」の名も与えられました。
この按針という言葉は、水先案内人を意味するのだとか。
慶長18年(1613年)、イギリス船クローヴ号が平戸に来航。
するとアダムスは彼らに付き添い、家康らとの会見を実現させ、貿易を許可する朱印状を取りつけることに成功します。
この功績により同年10月、家康より帰国許可が出て、東インド会社と雇用契約も結びました。
しかしアダムスは日本に留まり、母国イギリス商館の仕事を手伝いました。
その後は、平戸を起点に日本各地(奄美大島・那覇・駿河・長崎・江戸など)を航行しています。
そして元和2年(1616年)8月、唐船以外の外国船来航地を、長崎と平戸に限定するという幕府の海外貿易一元化政策が打ち出されました。
実はこの年、アダムスの最大の庇護者であった徳川家康が亡くなっているのです。
これにより、アダムスの立場は揺らいでいくことになります。
元和5年(1619年)、最期の航行から戻ったアダムスは体調不良を訴え、しばらく病臥していきました。
そして、元和6年4月24日(1620年5月26日)、平戸にて死去しました。
三浦按針(ウィリアム・アダムス)の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】三浦按針(ウィリアム・アダムス)は辞世の句などを残していない
しかし、遺言を残している。
結論から言うと、三浦按針(ウィリアム・アダムス)は辞世の句を残していません。
しかし、アダムスは同僚立ち合いの下、遺言を残しているため、それをご紹介いたします。
アダムスは、1620年(元和6年)5月26日午後3時に、平戸の宿主・安右衛門宅で息を引き取りました。
その日、まずアダムスは
「身体は病んでも記憶は全く確か」
と言って最期の口述をおこない、遺体を大地に埋葬してくれるよう言い残しました。
つまり土葬を希望したのでしょう。
遺言では、自分に密接に関わった者たちへの遺贈つまり死ぬ前に財産を分け与えることがなされました。
なお、遺贈を受けたリチャード・コックスとウィリアム・イートンは、遺言の執行人にも指名されています。
その主な内容は以下の通りです。
- ◯遺産の半分をイギリスの妻と子供たちに与え、残りの半分を日本の子供たちジョゼフとスザンナに与える。
- ◯リチャード・コックスにケース付き高級天球儀、すべての海図と地図、最上の刀を贈り、他の刀と脇差は息子ジョゼフに贈る。
- ◯ウィリアム・イートンに全蔵書と全航海用具を贈る。
- ◯使用人アントニーに現金5タイユと自由を与える。
- ◯女中ユガサに鏡台1台と最近京から届いた新品の帷子2着、および2本の銀棒8タイユ6マス相当を贈る。
- ◯宿主のヤシモンドノ(安右衛門殿)とその妻に60タイユを贈るが、彼らはすでに50タイユを所有しているので、執行人により残額が与えられる。
- ◯朝鮮人マイケル(ミゲル、商館通詞、元アダムスの使用人)に私への負債分10タイユを贈る。
- ◯使用人ジョン・フェーベ(逸見の水夫長)に4タイユ3マス相当の棒銀を贈り、彼の私への負債を帳消しにする。
- ◯(イギリス商館員)ジョン・オスターウィック、リチャード・キング、アブラハム・スマート、リチャード・ハドソンに最良の着物を1着ずつ与える。
このように、使用人に対しても遺言を残すと言ったところが、西洋と日本の価値観の違いが表れているのではないでしょうか。
三浦按針(ウィリアム・アダムス)の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】三浦按針(ウィリアム・アダムス)の死後、【元和の大殉教】という事件が起こりました。
元和8年(1622年)8月5日、長崎でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された【元和の大殉教】が起こりました。
これは江戸幕府が、禁止されていたキリスト教の信者を処罰した事件です。
このときは、二代将軍の徳川秀忠の時代です。
こののち、江戸幕府によるキリスト教弾圧は、さらに過激さを増していくことになります。
1868年、ローマ教皇ピウス9世により55名全員が、聖人に準ずる福者という地位にあげられました。
この年は、日本で明治維新が起こり、江戸幕府が滅亡した年にあたります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,三浦按針(ウィリアム・アダムス)の死因は?
→病死です。
2,三浦按針(ウィリアム・アダムス)が亡くなった日時は?
→1620年(元和6年)5月16日、享年55歳。
3,三浦按針(ウィリアム・アダムス)の最期の様子とは?
→遺言を残し、自分に密接に関わった者たちへの遺贈をおこないました。
4,三浦按針(ウィリアム・アダムス)の最期の言葉とは?
→アダムスは「体は病んでも記憶は全く確か」として最期の口述をおこない、遺体を大地に埋葬してくれるよう言い残しました。
5,三浦按針(ウィリアム・アダムス)の子孫とは?
→詳細は不明ですが、イギリスでもうけた娘は父の死後、遺産の請願を東インド会社に出しています。
→日本でもうけた男子ジョセフが父の遺産・領地を継承し、オランダ商館員や日本人有力商人らと親密になりながら、貿易に励みました。
→日本でもうけた女子スザンナの詳しい生涯は不明です。
→また、アダムスには、平戸でもうけた「隠し子」がいました。
6,三浦按針(ウィリアム・アダムス)の死後に起こった出来事とは?
→元和8年(1622年)8月5日、元和の大殉教が起こりました
以上となります。
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