紫式部の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 紫式部の死因は、不明だが、病死説が有力
- 紫式部が亡くなった年月日は不明。享年も不明
- 死ぬ前に、藤原実資の日記「小右記」に登場している
- 「誰が世に〜」で始まる歌を残した
- 平重盛・維盛という子孫がいる
- 死後、藤原道長により、一家三立后という偉業が達成された
この記事では、紫式部の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
紫式部の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、紫式部の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
紫式部の【死因】と【最後の様子】
紫式部の【死因】
【結論】紫式部の死因は不明だが、病死の可能性が高い。
紫式部の死因は、諸説あり、はっきりしていません。
ただ、病死した可能性が高いのではないでしょうか。
藤原実資の日記「小右記」には、1014年に紫式部らしき人物【越後守為時女】が登場し、その後の消息は不明です。
【越後守為時】と呼ばれた、紫式部の父親である藤原為時が、1029年まで生きています。
つまり、1014年に亡くなったのならば、父より先に亡くなったことになります。
それほど早い死の原因は、病死がもっとも可能性が高いのではないでしょうか。
他にも
- 病気ではなく、自然災害や事故で亡くなった
- 自ら命を絶った
- 僧侶として出家した
などの可能性もありますが、いずれも史料による裏付けはなく、推測の域を出ません。
紫式部の死因は、今後の研究によって解明される可能性もありますが、現在のところ、はっきりとしたことはわかっていません。
紫式部が【亡くなった日】と【享年】
【結論】不明
西暦1014年から1031年まで、紫式部が亡くなった時期は数々推測されていますが、いつ亡くなったかは不明です。
いつ生まれたのかも不明であるため、享年も不明です。
紫式部の子孫の現在
【結論】紫式部の子孫には、平安時代末期の平重盛・維盛という人物がいる
武士として初めて太政大臣にのぼりつめた平清盛の長男・平重盛は、紫式部の血を引く子孫です。
平清盛の最初の妻であった【平重盛の母親】は、紫式部の子孫なのです。
その為、彼女が産んだ平重盛とその長男・平維盛もまた、紫式部の子孫ということです。
また、平重盛の息子である平維盛は、紫式部の子孫であるためか、その美しさから「光源氏の再来」と呼ばれていました。
紫式部の子孫は、現代にも続いています。
現在の天皇陛下は、紫式部の血を引く子孫なのです。
→→→→→【紫式部の血を引く現在の子孫】についてくわしくはこちら
→→→→→【紫式部の血を引く歴史上有名な子孫一覧】についてくわしくはこちら
【紫式部の生涯年表】
西暦 | 年号 | 出来事 |
---|---|---|
970〜978年 | 天禄〜天元 | 平安京で、藤原為時の娘として生まれる |
995年 | 長徳元年 | 藤原道長の長兄・道隆が病死。次兄・道兼が急死。 |
998年 | 長徳4年 | 藤原宣孝と結婚する |
999年 | 長保元年 | 娘・藤原賢子(別名・大弐三位)を出産する |
1001年 | 長保3年 | 夫・藤原宣孝と死別する |
1006年頃 | 寛弘2年 | 藤原道長の娘・彰子の女房(家庭教師)としてつかえる |
1008年 | 寛弘5年 | 『紫式部日記』の執筆をはじめる。この頃には「源氏物語」が、ある程度完成していたと推定されている。道長の娘・彰子が、後一条天皇を出産する。 |
1010年 | 長和9年 | 『紫式部日記』の執筆を終える。この日記には、ある日の夜に藤原道長に誘われた一節があるため、紫式部は藤原道長の愛人だったという説もある |
1014年 | 寛仁6年 | 藤原実資の日記「小右記」に、紫式部らしき人物が登場する。これ以降、消息不明。病死または出家したともいわれている |
1018年 | 寛仁2年 | 藤原道長が、三女・威子を後一条天皇の中宮(妻)とし、一家から3人の皇后・中宮を出す偉業を達成。このとき「この世は私のもの」という「望月の歌」を詠んでいる。 |
1028年 | 万寿3年 | 藤原道長が亡くなる。享年62歳 |
紫式部の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】紫式部が残した歌は
「誰か世に ながらへて見る 書きとめし 跡は消えせぬ形見なれども」
です
これは紫式部の死後、彼女の手紙に記されていたものといわれています。
これが紫式部の辞世の句かどうかは、わかりません。
その意味は、以下のとおりです。
「死んでゆくもの(紫式部)が記したもの(源氏物語)を、いったい誰が生き長らえて読んでくれるというのだろう。
記したものは、決して消えることがない形見ではあるけれど」
約1000年ものあいだ語り継がれることとなる名作物語「源氏物語」について、紫式部は悲観的な将来を想像していたようです。
紫式部の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】紫式部の死後、藤原道長による一家立三后が実現しました。
紫式部が1014年に亡くなったとすれば、その4年後の1018年に、藤原道長が「一家立三后」を達成しています。
一家三立后とは、道長が達成した、天皇3代の皇后・中宮を、すべて自分の娘で占めることです。
これにより、藤原道長は絶大な権力を獲得することに成功したのでした。
道長の3人の娘たち、彰子・姸子・威子はそれぞれ天皇の皇后・中宮となっているのです。
- 彰子は、一条天皇の中宮
- 姸子は、三条天皇の皇后(三条天皇は、一条天皇の従兄弟)
- 威子は、後一条天皇の皇后(後一条天皇は、一条天皇と彰子の息子)
これにより、栄華の絶頂を極めた藤原道長は、望月の歌を詠んだのです。
「この世は私のための世だ。満月のように、欠けたところもなく満たされている」
しかし道長の死後、藤原氏の栄華は、道長の孫にあたる後三条天皇につぶされていきます。
後三条天皇の息子である白河法皇は、院政という政治手法で、絶大な権力を保持するのでした。
「サイコロ・鴨川・山法師。これ以外はすべて私の思うがままだ」
白河法皇の隠し子と噂された平清盛は、武士として初めて太政大臣となり、権力を極めます。
その栄華は
「平家一門でないものは、人ではない」
と豪語するほどでした。
そんな権力の絶頂を極めた平清盛を、唯一いさめた心優しき武将こそ、紫式部の血を引く子孫【平重盛】だったのです。
重盛は父・平清盛より先に亡くなります。
その後、平家一門は、まるで風の前の塵のように、1185年の【壇ノ浦の戦い】で、源義経に攻められ、滅び去るのでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,紫式部の『死因』は?
死因は不明だが、病死である可能性が高い
2,紫式部が【亡くなった日時】は?
不明
3,紫式部の【最後の様子】とは?
最後の様子は不明。藤原実資の日記「小右記」に紫式部らしき人が登場するのを最後に、歴史から姿をけす
4,紫式部が【残した歌】とは?
誰か世に ながらへて見る 書きとめし 跡は消えせぬ形見なれども
5,紫式部の【子孫】とは?
子孫は、平重盛とその息子・平維盛
6,紫式部の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、藤原道長による一家三立后という事件が起こった
以上となります。
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