源明子の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 源明子の死因は不明
- 西暦1049年8月23日(永承4年7月22日)に亡くなった、享年85歳
- 死ぬ前に、顕信や寛子といった我が子を亡くした
- 辞世の句は不明
- 子孫は、現在の天皇陛下、または五摂家出身の細川護煕さんや明治神宮の宮司・九条道成さん、さらには冷泉家の方々
- 死後、後三条天皇の即位、という歴史的事件が起こった
この記事では、源明子の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
源明子の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、源明子の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
源明子の【死因】と【最後の様子】
源明子の【死因】
【結論】源明子の死因は、不明
源明子の死因は不明です。
しかし、85歳という高齢で亡くなっています。
そのため、死因は老衰または病死でしょう。
そう考えるのが、自然であると思います。
源明子が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1049年8月23日(永承4年7月22日)、享年85歳
源明子の【生涯年表】
源明子の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
965年 | 源明子、左大臣源・高明の娘として生まれる。 |
969年 | 安和の変により、父・源高明が失脚。叔父・盛明親王の養女となる。 |
977年 | 盛明親王の没後、東三条院(藤原詮子)の庇護を受ける。 |
988年(通説) | 藤原道長と結婚。高松殿と呼ばれる。 |
993年 | 長男・頼宗誕生。 |
994年 | 次男・顕信誕生。 |
995年 | 三男・能信誕生。 |
1025年 | 三女・寛子死去。 |
1027年 | 次男・顕信死去。 |
1049年 | 源明子、永眠。享年85歳。 |
源明子は、父が安和の変という政変で失脚すると、藤原道長の姉・詮子に庇護されて育ったといいます。
道長の兄・道隆や道兼は、明子に言い寄ろうとしますが、詮子はこれを跳ね除けたのでした。
そして詮子は、仲が良かった弟・道長に、明子を嫁がせたのでした。
源明子の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】源明子の辞世の句、最後に残した言葉は、不明です
源明子の辞世の句は、調査いたしましたが、見つかりませんでした。
我が子を幼くして亡くしてしまったことを考えると、人生の悲しさを歌っていそうですが、記録に残っていませんでした。
源明子の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】源明子の子孫には、現代の冷泉家、現代の天皇家、明治神宮の九条道成さん、平安時代の白河法皇や堀川天皇そして安徳天皇などがいる
源明子の子孫は現在、天皇陛下に引き継がれています。
また、五摂家とよばれる今も続く5つの藤原氏の子孫による家にも、源明子の子孫は引き継がれています。
特に、明治神宮の宮司・九条道成さんは、源明子の子孫であるのみならず、藤原道長やその先祖・中臣鎌足と直接血が繋がった直系子孫です。
そして明子の血筋は、歌の道や有職故実で有名な冷泉家にも引き継がれています。
2024年現在、上冷泉家は冷泉為人さん、下冷泉家は冷泉為弘さんが継承しておられます。
どちらも源明子の子孫にあたられます。
また、元内閣総理大臣・細川護煕さんも、近衛家の出身ですので、源明子の子孫です。
源明子の子孫は、天皇家に引き継がれていると申しました。
明子のひ孫にあたる藤原賢子が、白河天皇とのあいだに、堀河天皇を産んでいるのです。
この堀河天皇の子供が、鳥羽天皇です。
鳥羽天皇の子が、後白河法皇。

後白河法皇
引用元Wikipediaより
後白河法皇の子が、高倉天皇。
高倉天皇と、平清盛の娘・徳子のあいだに生まれたのが、安徳天皇。

安徳天皇
引用元Wikipediaより
そして安徳天皇の異母弟が、後鳥羽上皇です。
安徳天皇といえば、1185年の壇ノ浦の戦いで、平家一門とともに海中に身を投げたことで有名です。
源明子の血筋は、その後、後鳥羽上皇をつうじて、現代の天皇陛下へと受け継がれているのです。
また、三井財閥、加藤清正、藤原定家など、歴史上の有名人も、源明子の子孫です。

余談ですが、紫式部やその弟・藤原惟規の子孫たちも、平家と極めて縁が深い方々です。(惟規は紫式部の兄という説もある)
紫式部の子孫も、弟・惟規の子孫も、壇ノ浦で入水しています。
惟規の子孫は、壇ノ浦で入水するも救い出され、悲劇に見舞われています。


源明子の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】源明子の死後、後三条天皇の即位、という事件が起こりました。
源明子の死後、夫である藤原道長とその正妻である源倫子のひ孫にあたる後三条天皇が即位します。

後三条天皇
引用元Wikipediaより
この後三条天皇が、藤原道長のときに絶頂をむかえた藤原氏の栄華を、終わらせることになります。
後三条天皇が発令した、延久の荘園整理令が、藤原氏の収入源だった荘園を失わせることとなるのです。
また、後三条天皇が自ら政治を行う親政と、その子・白河法皇がきっかけで始まった院政が、藤原氏の権力の根源であった摂関政治を終わらせることになります。
この後三条天皇を支援し、藤原氏の栄華を終わらせるきっかけになったのは、道長と明子の子である藤原能信でした。
能信は、父・道長や異母兄・頼通に反発し、その抵抗勢力になったのです。
結果として源明子は、息子を通じて、夫・藤原道長がつくりあげた栄華を終わらせることになるのです。
まるで何かの怨みを晴らすかのように、藤原氏は内から崩壊したのでした。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」で源明子は、夫・道長の父・藤原兼家を、父・源高明を失脚させた人物だとして、呪っている設定になっています。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,源明子の『死因』は?
死因は不明
2,源明子が【亡くなった日時】は?
- 西暦1049年8月23日(永承4年7月22日)に亡くなった、享年85歳
3,源明子の【最後の様子】とは?
最後の様子は不明
4,源明子の【最期の言葉】とは?
辞世の句は不明
5,源明子の【子孫】とは?
子孫は、現在の天皇陛下、または五摂家出身の細川護煕さんや九条道成さん、さらには冷泉家の方々
6,源明子の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、後三条天皇の即位、という事件が起こった
以上となります。
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