花山天皇の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 花山天皇の死因は、悪性腫瘍による病死
- 西暦1008年3月17日(寛弘5年2月17日)、宝算41歳
- 死ぬ前に、【長徳の乱】という騒動を起こした
- 辞世の句または最後の言葉は、不明
- 子孫には明治から昭和にかけて貴族院議員として活躍した白川資長さんというお方がいる
- 死後、藤原道長による『一家三立后』という歴史的事件が起こった
この記事では、花山天皇の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
花山天皇の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、花山天皇の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
花山天皇の【死因】と【最後の様子】
花山天皇の【死因】
【結論】花山天皇の死因は、悪性腫瘍
花山天皇の死因は、史料に明確に記されていません。
そのため、さまざまな説が唱えられています。
最も有力な説は、悪性腫瘍による病死説です。
瘤、つまりは身体にできた腫れ物が、その死に関係しているといわれています。
また、花山天皇は、退位後に【長徳の変】とよばれる事件で、着物の袖を矢で射抜かれており、これが精神的なショックを与えたのかもしれません。
花山天皇の死因は、さまざまな説が唱えられていますが、いずれも決定的な証拠はなく、謎に包まれています。
花山天皇が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1008年3月17日(寛弘5年2月17日)、宝算41歳
わずか生後10ヶ月で皇太子となり、17歳で即位。
その後わずか2年で天皇の位を譲り、出家したのが19歳。
後ろ盾がいなかったため、天皇の位を保てずに短命でおわったといわれています。
41歳という若さで亡くなったのは、最愛の女性である藤原忯子を失ったことや、襲撃されたりと、ショックな出来事が続いたからなのかもしれません。
花山天皇の【生涯年表】
西暦 | 年号 | 出来事 |
---|---|---|
968年 | 安和元年 | 冷泉天皇の第一皇子として誕生 |
969年 | 安和2年 | 叔父である円融天皇の即位により、生後10ヶ月で皇太子(東宮)となる |
984年 | 永観2年 | 円融天皇の譲位により、花山天皇として即位。 |
985年 | 寛和元年 | 最愛の女性・藤原忯子が、花山天皇の子供を妊娠中に急死する。この頃から出家したいと考え始める。 |
986年 | 寛和2年 |
最愛の女性・藤原忯子の死に加え、藤原道長の兄・道兼に騙され出家する。同時に位を円融天皇の子・一条天皇にゆずる(寛和の変) |
996年 | 長徳2年 | 寵愛した忯子の妹の家に通っていたところ、誤解が原因で藤原伊周・隆家兄弟に襲撃され、袖を矢で射抜かれる(長徳の変) |
1008年 | 寛弘5年 | 崩御。宝算41歳。 |
花山天皇の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】花山天皇の辞世の句、最後の言葉などは不明です。残されていません
花山天皇の辞世の句または最後の言葉は、史料に残されていません。
花山天皇の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】花山天皇の子孫には、明治から昭和時代の白川資長という人物がいる
女性好きだった花山天皇には、複数の子がいましたが、特に有名な子が2人いました。
- 清仁親王
- 昭登親王
実は、女性好きだった花山天皇は、ある母娘を同時に愛妾として、ほぼ同時期に男児を産ませています。
その生まれた2人の子供は、それぞれ
- 母腹宮
- 女腹宮
と呼ばれたのでした。
- 清仁親王を、母が産んだので、母腹宮です。
- 昭登親王を、娘が産んだので、女腹宮です。
長男の清仁親王の子である延信王は、白川家という昭和まで続く家の祖となりました。
白川家は、清仁親王の男系子孫によって継承されました。
清仁親王の長男・延信王は、臣籍降下つまり皇室の身分から離れて、源の姓を賜りました。
延信王の息子である康資王は、白川家を継承しています。
この白川家は、白川伯王家と呼ばれるようになります。
白川家は、明治維新まで続いています。
明治維新後、白川家は華族に列せられ、子爵となっています。
白川家は、明治から昭和時代を生きた貴族院議員・白川資長という人に受け継がれました。
しかし白川資長さんに子供がいなかったため、1959年に資長さんが亡くなると、そのまま断絶してしまったのです。
とはいえ、花山天皇の子孫は複数おられるため、加賀前田藩に武士としてつかえるなど枝分かれした子孫が、現在も続いていると考えられます。
花山天皇の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】花山天皇の死後、藤原道長の一家三立后という歴史的事件が起こりました。
花山天皇の死後、平安時代は、藤原氏の摂関政治がさらに強化されていく時代となりました。
1008年、花山天皇が亡くなった約半年後、藤原道長の娘・彰子が、一条天皇の子を産んでいます。
のちの後一条天皇です。
1009年、彰子はまたも男児を出産。
のちの後朱雀天皇です。
道長は孫の後一条天皇を即位させ、外戚として、政治を支配するようになりました。
その後も道長は、娘の姸子を三条天皇へ嫁がせています。(三条天皇は、花山天皇の異母弟であり、一条天皇のいとこ)
1018年、道長はさらに、娘の威子を後一条天皇に嫁がせています。(威子と後一条天皇は、叔母と甥の関係)
こうして藤原道長は、一家で3人もの天皇の后を出すことに成功し、前代未聞の一家三立后を達成したといわれています。
道長の権力は絶頂を極め、「望月の歌」と呼ばれる「この世は我が世」という歌を詠むほどの栄華を極めたのでした。
しかしその栄華は、長くは続きませんでした。
1028年、極楽浄土への強い願いを抱きながら、藤原道長は亡くなります。
最期は、阿弥陀如来像の手と自分の手を、糸でつないで亡くなったといいます。
この頃、公家のボディーガードでしかなかった武士たちが徐々に力をつけており、この頃から遠くない未来において、紫式部の子孫を妻とした平清盛が
「平家一門でないものは、人ではない」
と豪語するほどの栄華を極めることになります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,花山天皇の『死因』は?
死因は、悪性腫瘍による病死
2,花山天皇が【亡くなった日時】は?
西暦1008年3月17日(寛弘5年2月17日)、宝算41歳
3,花山天皇の【最後の様子】とは?
最後の様子は、花山院で腫瘍により亡くなったという(花山院は、現在の京都御苑の中にあった)
4,花山天皇の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は不明
5,花山天皇の【子孫】とは?
子孫は、明治〜昭和の白川資長さん
6,花山天皇の【死後に起こった出来事】とは?
死後に藤原道長による『一家三立后』という事件が起こった
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント