藤原斉信の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原斉信の死因は、老衰
- 西暦1035年5月3日(長元8年3月23日)で亡くなった、享年69歳
- 死ぬ前に、大臣になることを希望したが、藤原実資の存在に邪魔され大臣のひとつ手前の大納言で終わった
- 辞世の句は不明
- 養子を通じて、平重盛と池禅尼という子孫がいる
- 死後、前九年の役、という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原斉信の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原斉信の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原斉信の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原斉信の【死因】と【最後の様子】
藤原斉信の【死因】
【結論】藤原斉信の死因は、老衰
藤原斉信は、老衰つまり寿命が尽きて亡くなったと考えられます。
病死ではない理由としては、藤原斉信の最後については
「病に苦しむことなく亡くなった」
といわれているためです。
そのため、病死ではなく、老衰で亡くなったと考えるのが自然であると思います。
藤原斉信が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1035年5月3日(長元8年3月23日)、享年69歳
藤原斉信の【生涯年表】
藤原斉信の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
967年 | 藤原為光の次男として誕生 |
981年 | 従五位下に叙爵 |
984年 | 従五位上・侍従に叙任 |
985年 | 右兵衛佐に任ぜられる |
986年 | 従四位下・左近衛少将に叙任 |
989年 | 右近衛中将に任ぜられる |
990年 | 左近衛中将に任ぜられる |
991年 | 従四位上に叙任 |
992年 | 蔵人頭に任ぜられる |
994年 | 参議に任ぜられる |
995年 | 藤原道長に接近 |
996年 | 長徳の変により藤原伊周・隆家兄弟が左遷 |
999年 | 正四位下に叙任 |
1000年 | 従三位に叙任 |
1001年 | 権中納言に任ぜられる |
1002年 | 兄・誠信が憤死 |
1004年 | 従二位に叙任 |
1008年 | 正二位に叙任 |
1009年 | 権大納言に任ぜられる |
1013年 | 藤原妍子の御所として東三条殿が焼亡 |
1017年 | 藤原道長が太政大臣に昇進 |
1020年 | 大納言に昇進 |
1021年 | 娘を藤原長家に嫁がせる |
1022年 | 父・為光が大臣任官を望んで安禅寺を建立 |
1025年 | 娘が早産で死亡 |
1029年 | 道長の息子である関白・藤原頼通が一時重態に陥る |
1035年 | 薨去 |
藤原斉信の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原斉信の辞世の句は、不明
調査してみましたが、藤原斉信の辞世の句は、不明です。
記録にありませんでした。
藤原斉信の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原斉信の直接の子孫ではないが、弟(養子)の子孫に平重盛と池禅尼がいる
実は藤原斉信は、血のつながった子供達を、若くして次々と亡くしています。
そのため、弟の藤原公信を養子としているのです。
この弟であり養子でもある藤原公信を通じた子孫が、平清盛の最初の正室なのです。(清盛の最初の正室の名前は不明)
平清盛とその最初の正室のあいだに生まれたのが、小松殿と呼ばれた平重盛でした。
重盛は、父・清盛を何度もいさめた心のまっすぐな人物だったといわれています。
藤原斉信の養子・藤原公信の妻は、紫式部の娘・藤原賢子(大弐三位)であるといわれています。(紫式部の娘の夫は、藤原兼隆という人物だという説もある)
藤原公信と藤原賢子のあいだに生まれた子を通じた子孫が、平清盛の正室になって、平重盛を産んだのです。
つまり、平重盛は、紫式部の子孫でもあるということです。
ちなみにこの保元の乱が、平清盛による武士の支配する世の中の、重要な転換点となったのです。
この戦いに勝利した平清盛は、権力の階段を登っていくことになります。
同時に、藤原氏たち公家と、天皇の権力は、徐々に没落していくことになります。
また、斉信の別の養子・藤原経任を通じて、子孫には平清盛の継母で、源頼朝の命を救った池禅尼がいます。
ちなみに藤原斉信の妹・藤原忯子は、花山天皇の異常なほどの寵愛を受けたことで有名です。
藤原忯子は、花山天皇の寵愛が強すぎたためか、身ごもったまま亡くなります。
その子が産まれていたら、藤原斉信の権力が増し、もしかすると天皇に娘を入内させるなんてことになって、斉信の子孫が天皇家に続いているということになっていたかもしれません。
藤原斉信の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原斉信の死後、前九年の役、という事件が起こりました。
藤原斉信の死から16年後の1051年、東北地方で前九年の役という戦乱が起こっています。
この戦いは、それまでの公家や天皇が支配する世の中から、武士が支配する世へ移り変わる、始まりのような事件でした。
東北地方で一大勢力をつくりあげていた安倍氏が、朝廷に対して反発をし始めていました。
そのため、京都から源頼義とその子・源義家が、討伐のために派遣されます。
戦いは、源頼義と、それに協力した清原氏が勝利。
その後、東北地方は勝利した清原氏に引き取られた、藤原清衡に支配され、清衡・基衡・秀衡と、奥州藤原氏三代の栄華を極めるのでした。
さらに、この戦いで勝利した源頼義と源義家は、その後の武士たちの伝説的な名将として、その名を歴史に刻むことになります。
義家の子孫である源頼朝や足利尊氏、そして子孫を自称した徳川家康によって、3つの幕府が開かれ、日本は武士が支配する国となっていくのです。
頼朝よりも先に、圧倒的な権力で日本を事実上支配したのが、平清盛です。
平清盛は、紫式部の子孫にあたる女性を正室として、長男・平重盛をもうけています。
先ほども申しましたが、平重盛やその息子・平維盛は、紫式部の子孫にあたります。
紫式部の子孫だと、知ってか知らずか、平維盛は「光源氏の再来」と呼ばれるほどの美男子だったといわれています。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原斉信の『死因』は?
死因は、老衰
2,藤原斉信が【亡くなった日時】は?
西暦1035年5月3日(長元8年3月23日)、享年69歳
3,藤原斉信の【最後の様子】とは?
最後の様子は、病で苦しむ様子もなく亡くなったという
4,藤原斉信の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、不明
5,藤原斉信の【子孫】とは?
養子を通じて、平重盛と池禅尼という子孫がいる
6,藤原斉信の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、前九年の役、という事件が起こった
以上となります。
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