藤原兼家の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原兼家の死因は、病死
- 西暦990年7月26日(永祚2年7月2日)、享年62歳
- 死ぬ前に、関白の職を、長男・藤原道隆にゆずって引退した
- 辞世の句は残されていないが、妻・藤原道綱母へ送った和歌が記録に残っている
- 現在の天皇陛下や、元首相・細川護煕さんという子孫がいる
- 死後、長男・藤原道隆の急死と、長徳の変という歴史的事件が起こった
この記事では、あの有名な藤原道長の父・藤原兼家の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原兼家の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原兼家の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原兼家の【死因】と【最後の様子】
藤原兼家の【死因】
【結論】藤原兼家の死因は、病死
死因について、くわしい病名は不明です。
藤原兼家は、関白に就任してわずか3日で引退しています。
その引退は、病気が理由だったといわれています。
兼家は、息子の道隆に関白をゆずって引退し、その2ヶ月後に亡くなったのでした。
病名は不明ですが、何かしらの体調不良があったと考えられます。
藤原兼家が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦990年7月26日(永祚2年7月2日)、享年62歳
藤原兼家の【生涯年表】
藤原兼家の生涯を、でザッと解説いたします
西暦 | 出来事 |
---|---|
929年 | 藤原師輔の三男として誕生 |
948年 | 天暦2年、従五位下に叙され、童殿上 |
949年 | 天暦3年、昇殿を許される |
966年 | 兼家の五男として、藤原道長が誕生する |
967年 | 康保4年、甥の冷泉天皇即位に伴い、蔵人頭・左近衛中将となる |
968年 | 安和元年、従三位に叙される |
969年 | 安和2年、参議を経ずに中納言となる |
972年 | 天禄3年、正三位大納言・右近衛大将・按察使を兼ねる。病の伊尹が辞表を提出する。翌日、兼家と兼通は円融天皇の御前で口論。 |
977年 | 兼通の重態に兼家が禁裏へ参内。兼通が後継の関白に頼忠を指名し、兼家を格下げる。兼通が薨御。 |
979年 | 右大臣に進む。 |
980年 | 延暦寺横川に恵心院を建立。 |
982年 | 詮子の入内がかなう。 |
984年 | 円融天皇が譲位し、懐仁親王が即位。 |
986年 | 寛和の変:花山天皇が出家、懐仁親王が即位。摂政・氏長者に就任。 |
989年 | 道隆を内大臣に任命し「大臣4人制」を実現。頼忠が薨去し、太政大臣に就任。 |
990年 | 関白に任じられるが、3日で関白を譲って出家。法興院に居住。病没。享年62。 |
藤原兼家の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原兼家の辞世の句は、不明です。記録にありません。
兼家の辞世の句や最後の言葉は不明です。
しかし、兼家が残した和歌があります。
藤原兼家の妻のひとりである藤原道綱母という女性がいます。
彼女が記した「蜻蛉日記」には、兼家が藤原道綱母に送った和歌がいくつか記されています。
音にのみ 聞けばかなしな ほととぎす こと語らはむと思ふ心あり
「あなたの噂をうかがっているだけで、お会いできないことは、本当に切ないです。直接あなたにお目にかかって、親しくお話をしたいとおもっております。)
さらに、藤原道綱母からの返事がないので、以下のような歌を送ったとのことです。
人知れず いまやいまやと 待つほどに かへりこぬこそ わびしかりけれ
(あなたからの返事を、人知れずに今か今かと待っております。しかしいつまで待っても返事がないのは、とても辛いです)
他にも、兼家が口にしたという、有名な言葉があります。
兼家が残した言葉として
「まろの左右の目である」
というものがあります。
これは、兼家に仕えた部下の藤原在国と平惟仲という二人を指して行った言葉です。
兼家を支えた藤原在国と平惟仲は、兼家の死後、兼家の五男・藤原道長につかえて、その栄華をささえています。
藤原兼家の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原兼家の子孫には、現在の天皇陛下と、元内閣総理大臣の細川護煕という人物がいる
藤原兼家の子孫には、現在の天皇陛下と、元内閣総理大臣の細川護煕さんがいます。
兼家の娘である藤原詮子は、円融天皇とのあいだに、一条天皇を産んでいます。
その一条天皇の子孫が、現在の天皇陛下なので、藤原兼家は天皇陛下の先祖ということになります。
また、藤原兼家の血筋は、その後も藤原道長を通じて、藤原氏に受け継がれています。
藤原氏はその後、五摂家と呼ばれる五つの家に分裂しています。
つまり
- 近衛家
- 九条家
- 二条家
- 一条家
- 鷹司家
の五つの家です。
これら五つすべての家に、兼家の血筋が受け継がれていますが、そのうちの一つ「近衛家」の子孫が、終戦直後に自決した元内閣総理大臣・近衛文麿です。
その近衛文麿の孫にあたるのが、元内閣総理大臣・細川護煕さんです。
細川護煕さんは、戦国大名・細川藤孝と細川忠興という有名な親子の血を引く子孫でもあります。
さらに、明治神宮の宮司さんを務めておられる九条家35代目当主・九条道成さんは、藤原兼家・藤原道長と直接血の繋がった子孫として有名です。
九条道成さんは、兼家と道長どころか、藤原氏を名乗った最初の人物・中臣鎌足(藤原鎌足)とも、直接血の繋がった子孫にあたるお方です。
その九条道成さんは、2021年4月1日に、明治神宮の宮司に就任しておられます。
藤原兼家の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原兼家の死後、「藤原道隆の病死」という事件が起こりました。
藤原兼家が亡くなった5年後の995年、兼家のあとを継いだ長男・藤原道隆が、43歳という若さで亡くなっています。
その数日後、今度は兼家の三男・藤原道兼も急死しているのです。
道隆の弟・藤原道兼は、念願だった関白の職についた直後、わずか数日で亡くなってしまうのです。そのため「七日関白」とあだ名されています。
これにより、藤原氏の権力は、
- 藤原兼家の五男・藤原道長
- 藤原道隆の長男・藤原伊周
この叔父と甥の関係にある両者によって争われることになるのです。
ふたりの権力闘争は、藤原道長の勝利で終わります。
道隆の死の翌年にあたる996年に、「長徳の変」と呼ばれる政変が起こり、藤原伊周が左遷されているのです。
伊周は、自分の愛人が花山法皇と関係を持っていると誤解し、弟である藤原隆家に花山法皇を襲撃させてしまうのです。
花山法皇は、袖を矢で射抜かれて、従者二人の首を持ちさられてしまいます。(花山法皇はこのとき無事逃げ延びた)
この事件は、藤原道長に利用され、伊周と隆家の兄弟は、左遷されてしまいます。
長徳の変で伊周・隆家兄弟が失脚し、藤原道長の権力は、磐石なものとなったのです。
その後、道長は父・兼家がつくった土台の上に、藤原氏の全盛期を築きあげ、亡くなるまで栄華を誇るのです。
道長の最期は、阿弥陀如来像と自分の手を糸でつなぎ、極楽浄土へ行きたいという強い願いを感じさせるものだったといいます。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原兼家の『死因』は?
死因は、病死
2,藤原兼家が【亡くなった日時】は?
西暦990年7月26日(永祚2年7月2日)、享年62歳
3,藤原兼家の【最後の様子】とは?
最後の様子は、関白の職を長男・道隆にゆずり、出家して亡くなったという
4,藤原兼家の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、不明
5,藤原兼家の【子孫】とは?
子孫は、現在の天皇陛下、そして元首相・細川護煕さん。
6,藤原兼家の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、長男・藤原道隆の急死という事件が起こった
以上となります。
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