藤原彰子の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原彰子の死因は病死
- 西暦1074年10月25日(承保元年10月3日)に亡くなった、享年87歳
- 死ぬ前に、ひ孫にあたる白河天皇が即位した
- 「見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花」という歌を、一条天皇の崩御の際に詠んだという
- 現在の天皇陛下は、子孫にあたられる
- 死後、白河天皇の院政と、平家の盛衰の時代がはじまる
この記事では、藤原彰子の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原彰子の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原彰子の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原彰子の【死因】と【最後の様子】
藤原彰子の【死因】
【結論】藤原彰子の死因は病死
彰子の死因は病死です。
晩年、病気に苦しむ様子が記録に残っています。
1052年、亡くなる20年以上前ですが、彰子は一時危篤状態におちいったといいます。
このとき奥州では、前九年の役が起こっていました。
彰子の危篤が原因で、一時ですがその戦いが停戦になったといいます。
彼女の存在の大きさがうかがえるエピソードです。
藤原彰子が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1074年10月25日(承保元年10月3日)、享年87歳
藤原彰子の【生涯年表】
藤原彰子の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
988年 | 藤原彰子、誕生 |
999年 | 12歳で一条天皇に入内 |
1000年 | 中宮に冊立 |
1008年 | 敦成親王(後一条天皇)を出産 |
1011年 | 一条天皇が崩御 |
1012年 | 皇太后となる |
1016年 | 敦成親王が即位(後一条天皇) |
1026年 | 藤原彰子、出家 |
1028年 | 藤原道長が薨去 |
1036年 | 彰子の子・後一条天皇が崩御 |
1045年 | 彰子の子・後朱雀天皇が崩御 |
1052年 | 藤原彰子、病気で重篤な状態となるが回復 |
1074年 | 藤原彰子、死去 |
藤原彰子が【残した和歌】とその意味を解説
【結論】藤原彰子が残した歌に
「見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花」
というものがある
彰子は、夫の一条天皇が亡くなる際に、この歌を詠んでいます。
これは一条天皇が詠んだ辞世の句に対しての、返事の歌です。
一条天皇は
「露の身の風の宿りに君を置きて塵を出でぬる事ぞ悲しき」
儚い私の身が、風の宿る地(現世のこと)に、君ひとりを残して、塵の世(この世のこと)を出ていかなくてはならないことが、とても悲しい
それに対して、彰子はこう応えました。
「見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花」
(夫の一条天皇に先立たれた、私の心も知らずに、無邪気に撫子の花を手に取る我が子をみていると、涙がこぼれてしまう)
わずか24歳で、夫を亡くして子供をかかえ、心細い彰子の気持ちが伝わってきます。
藤原彰子の最後の様子とは
【結論】彰子は、法成寺の阿弥陀堂に入り、9体の阿弥陀如来像の前で亡くなった
彰子は、極楽浄土へ行くことを願ったのでしょうか、法成寺の阿弥陀堂に入り、9体の阿弥陀如来像に見守られながらなくなったといいます。
実は、彰子の父である藤原道長も、この九体阿弥陀堂で、同じような形で亡くなっているのです。
道長は、糸で九体の阿弥陀如来像の手と自分の手を結び、北に枕して西を向くという、釈迦と同じ体勢で亡くなったといいます。
彰子は、父と同じ形で亡くなることで、父との再会を夢見たのかもしれません。
余談ですが、藤原道長や彰子の邸宅があった法成寺跡の石碑は、紫式部の邸宅跡といわれている廬山寺から、歩いてすぐのところにあります。
ともに京都御所と、道を挟んだ向かい側に位置しています。
藤原彰子の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原彰子の子孫は、現在の天皇陛下
藤原彰子の子である後朱雀天皇を通じて、彰子の血筋は天皇家に引き継がれていきます。
当然ですが、現在の天皇陛下もまた、藤原彰子の子孫にあたるのです。
彰子が亡くなった時、天皇の位は、白河天皇に引き継がれていました。
白河天皇は、彰子のひ孫にあたる人物です。
実はこの白河天皇には、当時から不穏な噂がありました。
白河法皇は、とてつもない権力者で、とても自由奔放な人だったことで有名です。
そのため、隠し子が数えきれないほどいたというのです。
孫・鳥羽法皇とその妻・璋子のあいだに生まれた崇徳上皇は、実は白河法皇の子だという噂があったほどです。
また、あの平清盛も、白河法皇の隠し子だと、当時から噂されていたのです。
もし万が一、平清盛が白河法皇の子なら、清盛は藤原彰子の子孫ということになります。
しかし真相は、おそらく永遠に、不明のままでしょう。
藤原彰子の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原彰子の死後、白河法皇の院政と平家の盛衰の時代、が始まります。
藤原彰子は、87歳という高齢で亡くなりました。
そのとき、世は白河天皇の時代でした。
白河天皇は、のちに位を息子に譲って出家し、白河法皇と名乗って院政を開始します。(院政とは、天皇を息子にゆずって上皇の身分で政治を行う政治体制)
院政によって、白河法皇は権力を独占。
彰子の父・藤原道長が
「この世は我が世。満月のように欠けたところが、まるでない」
と歌ったのと同じように、白河法皇は
「サイコロ・鴨川・山法師。この三つ以外は全てが私の思うがままだ」
と豪語するほど、権力を独占したのでした。
その院政による権力独占を終わらせたのが、白河法皇の隠し子と噂された平家の棟梁・平清盛でした。
「平家にあらざれば人にあらず」
「平家一門にあらざるものは、皆人非人なり」
そう豪語し、おごりたかぶる平清盛を、ただひとり諫めたのは、紫式部の子孫にあたる平重盛でした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原彰子の『死因』は?
死因は病死
2,藤原彰子が【亡くなった日時】は?
西暦1074年10月25日(承保元年10月3日)、享年87歳
3,藤原彰子の【最後の様子】とは?
最後の様子は、法成寺の九体阿弥陀堂で、父・道長と同じように亡くなった
4,藤原彰子の【最期の言葉】とは?
「見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花」という歌を、一条天皇の崩御の際に詠んだ
5,藤原彰子の【子孫】とは?
子孫は、現在の天皇陛下
6,藤原彰子の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、白河天皇の院政と、平家の盛衰の時代が始まった
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント