円融天皇の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 円融天皇の死因は、病死
- 西暦991年3月1日(正暦2年2月12日)、宝算33歳
- 死ぬ前に、息子・一条天皇の後見として院政にもにた政治体制を構築しようとした
- 辞世の句または最後の言葉などは残されていない
- 子孫には、現在の天皇陛下がおられる。または、後鳥羽上皇や後醍醐天皇も子孫にあたられる
- 死後、長徳の変という歴史的事件が起こった
この記事では、円融天皇の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
円融天皇の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、円融天皇の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
円融天皇の【死因】と【最後の様子】
円融天皇の【死因】
【結論】円融天皇の死因は、病死。
円融天皇は、991年(正暦2年)に33歳で崩御(亡くなること)しました。
その死因については、諸説ありますが、一般的には「病死」と考えられています。
その根拠として、円融天皇は、在位中に度々病気で倒れたことが記録に残っていることが挙げられます。
例えば、972年(天禄3年)には、大病を患い、良源という僧侶の祈祷で回復したとされています。
このとき、良源が神仏への加護を祈り始めると、良源の姿が不動明王の姿に変わったといわれています。
ただし、円融天皇の死因については、あくまでも推測の域を出ません。
具体的な死因は、当時の医学的知識では判断が難しく、現代でも完全に解明されていないのが現状です。
余談ですが、円融天皇の病気を祈りで治した良源という僧侶は、慈恵大師とよばれて信仰を集めています。
良源こと慈恵大師は、【平家物語】において、平清盛に生まれ変わったとされています。

平清盛
Wikipediaより引用
この平清盛の最初の妻が、紫式部の子孫であり、生まれた子・平重盛とその子供たちも、紫式部の血を引いています。
円融天皇が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦991年3月1日(正暦2年2月12日)、宝算33歳
ちなみに、2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原兼家から、死なない程度に毒を飲まされて位をゆずったというストーリーになっていました。
しかしそれは、創作・フィクションです。
円融天皇の子孫の現在
【結論】円融天皇の子孫には、平安時代の安徳天皇と、現代の天皇陛下がおられる
円融天皇の子孫は、現在も皇室につながっています。
円融天皇の第一皇子である一条天皇の系統が、現在も皇位を継承しているのです。
円融天皇の子である一条天皇と、道長の娘である藤原彰子から、後一条天皇と後朱雀天皇が生まれました。
その後、後朱雀天皇の子である後三条天皇から、院政で絶対権力者となった白河法皇が生まれているのです。
- 白河法皇の隠し子ではないかと、父・鳥羽法皇から疑われ、悲劇的な人生をむかえた崇徳上皇。
- 壇ノ浦の戦いで、滅亡した平家一門とともに海へと沈んだ安徳天皇。
- 安徳天皇の異母弟で、承久の乱において北条義時・泰時親子に大敗し、隠岐へ流された後鳥羽上皇。
- 鎌倉幕府を滅ぼし、南北朝動乱のきっかけとなった後醍醐天皇。
すべて、円融天皇の子孫にあたります。
円融天皇の子孫は、皇室のみならず、貴族や武家にも広がっています。
このように、円融天皇の子孫は、現在も日本の政治や文化に大きな影響を与え続けています。
なお、円融天皇の子孫の一部は、長い年月の間に、皇室や貴族、武家を離れて、一般の民家に嫁いでいます。
その子孫は、現在も全国各地に広がっていると考えられます。
たとえば、円融天皇の子孫が、最後の将軍・徳川慶喜の子に嫁ぎ、現在も女系子孫が続いているようです。

ちなみに、平清盛には、白河法皇の隠し子なのではないか、という噂があります。(平家物語では、清盛は白河法皇の隠し子という設定になっている)
もしもそれが事実ならば、平清盛もまた、円融天皇の子孫ということになります。
先ほども申しましたが、平清盛の長男。平重盛を産んだ女性は、紫式部の子孫にあたります。
つまり、もし本当に平清盛が円融天皇の子孫ならば、平重盛とその息子・平維盛は、円融天皇の子孫であり、同時に紫式部の子孫ということになります。

円融天皇の【生涯年表】
西暦 | 出来事 |
---|---|
959年 | 村上天皇の第五皇子として誕生 |
967年 | 9歳で皇太子(東宮)となる |
969年 | 兄・冷泉天皇が譲位し、円融天皇が即位 |
978年 | 藤原道長の姉・詮子が入内(円融天皇と婚姻)する |
984年 | 道長の父・藤原兼家と対立し、冷泉天皇の子で、円融天皇の甥にあたる花山天皇に譲位。自らは太上天皇(上皇)となる |
986年 | 藤原兼家に騙された花山天皇が譲位(寛和の変)し、円融天皇と詮子の子である一条天皇が即位。一条天皇を指導して政治への発言権を強める。一条天皇の祖父・兼家としばしば意見が対立する |
991年 | 33歳で崩御 |
円融天皇の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】円融天皇の辞世の句、または最後の言葉は、記録にありません
円融天皇の辞世の句や最後の言葉については、記録が残されていません。
崩御される直前に円融天皇は、妻・藤原詮子の父・藤原兼家と対立し、権力闘争を繰り広げていました。
このような政治的なストレスも、円融天皇の死に影響したのではないかと考えられています。
もし円融天皇が辞世の句や最後の言葉を残していたとしても、政治的な対立や自身の死を悼むような、悲しみや怒りを感じさせるものであった可能性が高いと考えられます。
そのため、そのような内容の句や言葉を記録に残したくても、憚られて残せなかったのかもしれません。
円融天皇の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】円融天皇の死後、【長徳の変】という事件が起こりました。
円融天皇が亡くなった4年後の995年に、長徳の変が起こり、藤原道長の権力がさらに強まることになります。
長徳の変は、藤原道隆の子である藤原伊周と隆家の兄弟が、花山法皇を襲った事件です。
花山院闘乱事件とも呼ばれます。
藤原道長の兄・藤原道隆と道兼の2人が死去すると、弟の道長が権力を握ることになりました。

藤原道長
引用元Wikipediaより
しかし道隆の嫡男であり、道長の甥にあたる藤原伊周は、道長を疎ましく思い、道長に対抗しようとしました。
そんな中で、花山法皇と藤原伊周のあいだで、誤解から女性問題が起こります。
伊周の恋人と、花山法皇が関係をもっていると、伊周が誤解したのです。

花山天皇
引用元Wikipediaより
伊周から相談を受けた弟の藤原隆家は、花山法皇の一行を襲撃します。
弓矢で衣の袖を射抜かれた花山法皇は、女性問題という恥ずかしさから事件を秘密にし、引きこもります。
藤原道長は、この事件を利用して、ライバルであった藤原伊周・隆家兄弟を左遷。
道長は権力を独占することに成功するのです。
その後、花山天皇は41歳という若さで亡くなっています。
花山天皇の死因は病死ということですが、この件がショックで尾を引いたのかもしれません。
この事件により、道長の政治的権力はますます強固なものとなり、藤原氏の全盛期が到来しました。
長徳の変には、ただの花山法皇と藤原伊周のあいだで起こった、女性をめぐる喧嘩というだけではありません。
藤原氏の内部でおこなわれた、権力闘争という面もあったのです。
長徳の変はその権力闘争を、「藤原道長の勝利」という形で決着させた事件でした。
こうして藤原道長は、「この世は我が世」と歌った「望月の歌」を残すほどの、権力の絶頂期をむかえるのです。
とはいえそんな道長も、最期の瞬間は、極楽浄土へ行きたい一心で、ものすごい執念を見せたようです。
→→→→→【藤原道長の最期と死因!望月の歌の意味】についてくわしくはこちら
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,円融天皇の『死因』は?
死因は、病死
2,円融天皇が【亡くなった日時】は?
西暦991年3月1日(正暦2年2月12日)、宝算33歳
3,円融天皇の【最後の様子】とは?
最後の様子は、息子である一条天皇の後見として、のちの院政にも似た政治体制を構築しようとしていた
4,円融天皇の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、不明
5,円融天皇の【子孫】とは?
子孫は、現在の天皇陛下。さらには崇徳上皇、安徳天皇、後鳥羽上皇、後醍醐天皇など。
6,円融天皇の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、長徳の変という事件が起こった
以上となります。
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