【近藤勇】の死因や最後の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。内容をかんたんにまとめると、以下のとおりです
- 近藤勇は、薩摩長州の新政府軍によって処刑され、首を斬られた
- 亡くなったのは1868年5月17日。享年35歳。亡くなった場所は、江戸・板橋の処刑場
- 近藤勇の首は行方不明となっている。ただ、【新選組全史~下~】という本によれば、京都・高台寺の裏に埋葬されたという
以下の本文で、近藤勇の最期をさらにくわしく開設しております。
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この記事を短く言うと
1,近藤勇の『死因』は?
近藤勇の死因は【斬首刑】。新政府軍に捕らえられて、斬首された。
2,近藤勇が【亡くなった日】と【最後の様子】とは?
【1868年5月17日(慶応4年4月25日)】
享年35歳(満年齢33歳)
3,近藤勇が【亡くなった場所】と【お墓の場所】はどこにあるの?
近藤勇が亡くなった場所は、江戸・板橋の処刑場。お墓はなく、首は行方不明だが、おそらく京都・高台寺の裏に埋葬された。
近藤勇の【死因】と【首の行方】
近藤勇の死因は【斬首】
近藤勇の死因は、【斬首刑】です。
新選組局長・近藤勇は、新政府軍に捕らえられ、切腹すら許されず、処刑されたのです。
近藤勇が処刑された理由とは?
近藤勇たち新選組は、新政府軍にとっては大罪人でした。
大罪人だから、近藤は処刑されたのです。
近藤たち新選組は、京都の治安維持を担当していました。今でいうところの警察の特殊部隊、それが新選組なのです。
その治安維持の任務を遂行するために、新選組は、薩摩と長州そして土佐の要人たちを、次々と死に追いやっているのです。
新政府軍の薩摩・長州・土佐の人たちからすると、近藤勇は仲間の仇なわけです。
そういった理由で新政府軍に恨まれていた近藤勇は、斬首という、もっとも無残な方法で処刑されたのです。
近藤勇が【斬首】された意味とは?武士と認められなかった最期
近藤勇は、武士らしく切腹することもできずに、斬首というもっとも無残な方法で処刑されています。
近藤勇ですが、実は武士ではなく、もともとは農民という身分でした。
その後、身分を問わない新選組に参加して活躍し、武士としての身分を手に入れているのです。
斬首された場所は、正式な処刑場ではなく、粗末な簡易の刑場だったとか。
その首は、京都三条河原に罪人としてさらされています。
「奮闘したが、援軍もなく囚われてしまった。
農民でしかない私を武士として取り立ててくれた将軍家の御恩を思うと、涙が出てくる」
近藤は辞世の句で、このように無念の想いを残しています。
近藤勇が最後に命乞いした理由とは?
近藤勇は、囚われたときに、命乞いをしたと言われています。
しかし、自分の命乞いをしたわけではなく、自分と一緒に囚われた部下の命乞いをしているのです。
「自分のような大物を捕らえ、処刑できるのだから、部下たちは助けてやってくれ」
この命乞いのおかげで、近藤に付き添っていた野村利三郎(のむら りさぶろう)と相馬主計(そうま かずえ)は、命を救われました。
二人はその後、土方歳三と合流して、新政府軍に徹底抗戦。
野村は箱館戦争で戦死し、相馬主計は土方歳三の死後、新選組局長として終戦を迎えます。
しかし相馬主計は明治8年に謎の切腹で命を絶っています。
切腹の理由を知っていた唯一の人物である相馬主計の妻は、夫からの「他言無用」という遺言を守り、死ぬまでその切腹の理由を明かしませんでした。
近藤勇の首のゆくえとは?
近藤勇の首は、江戸から京都へ送られ、三条河原でさらし首とされたのち、行方不明となっています。
菊地明さんの著書【新選組全史~下~】によれば、近藤勇の首は、京都・清水寺の近くにある高台寺の裏・東大谷山町の山の中である可能性が高いとのことです。
その行方は諸説あり、新選組三番組長・斎藤一が持ち去って、愛知県岡崎市の法蔵寺(ほうぞうじ)に葬られたともいわれています。
または会津へと届けられ、丁寧寺(ていねいじ)に葬られたともいわれています。
ところが、菊地明さんの著書【新選組全史~下~】によれば、近藤勇の首は、京都の清水寺ちかくにある高台寺の裏の山の中に埋められたという証言があると記されています。
当時は高台寺の裏に、近藤勇の墓碑もあったといいますが、土砂崩れを繰り返し、すでに失われたとのことです。
近藤勇が【亡くなった日】と【最後の様子】とは?
【亡くなった日】と【享年】
【1868年5月17日(慶応4年4月25日)】
享年35歳(満年齢33歳)
【最後の様子】と【最後の言葉】
新政府軍に囚われた近藤勇は、付き添ってくれた者たちの命乞いをした後、江戸・板橋の粗末な処刑場で亡くなりました。
捕縛されてから22日の間、近藤はヒゲの手入れができなかったらしく、斬首される直前に、
ヒゲを剃って、見苦しくないようにしたい
と、新政府軍に対して頼み、聞き入れられています。
最期まで身だしなみに気を配り、武士らしい最期を遂げようとした近藤勇。
おそらくこれが、近藤勇の最後の言葉だろうと思われます。
その無念の死は、土方歳三に引き継がれます。
近藤のかたきを討とうとした土方は、新政府軍に徹底抗戦します。
ところがそんな土方も、近藤の死から約1年後の【1869年6月20日】、箱館戦争で戦死しています。
近藤勇は、なぜ捕らえられたのか?
近藤勇が処刑された理由は、近藤たち新選組が、新政府軍の背後を襲う計画があったためといわれています。
当時、近藤たち新選組は、《甲陽鎮撫隊》と部隊名を変えて、薩摩・長州の新政府軍と戦っていました。
ところが甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい)で新政府軍に敗北した新選組は、現在の千葉県流山市まで撤退。
そこで、新政府軍の背後を突こうとしたものの、新政府軍にそれを察知され、【慶応4年4月3日】に、近藤勇は囚われてしまうのです。
このとき近藤は、【大久保大和(おおくぼ やまと)】と名前を変えて、新政府軍に対して
自分は近藤勇ではない
と主張し続けたといわれています。
ところが、かつて新選組に所属していた仇敵・伊東甲子太郎の部下たちと対面し、あっさりと近藤勇であることを認めたといわれています。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,近藤勇の『死因』は?
近藤勇の死因は【斬首刑】。新政府軍に捕らえられて、斬首された。
2,近藤勇が【亡くなった日】と【最後の様子】とは?
【1868年5月17日(慶応4年4月25日)】
享年35歳(満年齢33歳)
3,近藤勇が【亡くなった場所】と【お墓の場所】はどこにあるの?
近藤勇が亡くなった場所は、江戸・板橋の処刑場。お墓はなく、首は行方不明だが、おそらく京都・高台寺の裏に埋葬された。
以上となります。
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