藤原義懐の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原義懐の死因は、老衰または病気
- 西暦1008年8月20日(寛弘5年7月17日)に亡くなった、享年52歳
- 死ぬ前に、仏道修行に20年以上を捧げて往生したという
- 亡くなった直後「藤原義懐は、極楽浄土へ行った違いない」と噂されたという
- 大江定経という人物に嫁いだ孫娘がいる
- 死後、息子の藤原伊成が藤原道長の息子・藤原能信を殴る、という事件が起こった。
この記事では、藤原義懐の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原義懐の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原義懐の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原義懐の【死因】と【最後の様子】
藤原義懐の【死因】
【結論】藤原義懐の死因は、老衰または病気
藤原義懐の死因は、老衰または病気であると考えられます。
義懐は、亡くなる22年前、花山天皇の出家にともない、自らも出家しています。
その後、義懐はもっぱら仏道修行に人生を費やしたといわれています。
義懐は、往生を遂げたといいます。
往生を遂げた、つまり浄土へ行ったとされる最期だったということは、おそらく病気で苦しんだりせずに亡くなったということでしょう。
少し若すぎる気もしますが、もしかすると、死因は老衰なのかもしれません。
藤原義懐が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1008年8月20日(寛弘5年7月17日)、享年52歳
藤原義懐の【生涯年表】
藤原義懐の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
957年 | 藤原伊尹の長男として誕生 |
972年 | 従五位下に叙爵 |
974年 | 兄2人が病死 |
979年 | 春宮亮に任ぜられる |
984年 | 甥にあたる花山天皇の即位に伴い蔵人頭に任ぜられる |
985年 | 従二位・権中納言に叙任 |
986年 | 花山天皇が出家、義懐も出家(寛和の変) |
1008年 | 薨去 |
藤原義懐の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原義懐の辞世の句、または最期に残した言葉は、不明です。
しかし藤原義懐は、亡くなった直後、その死を耳にした人々から「極楽浄土へ行ったに違いない」と噂されたといいます。
藤原義懐の辞世の句は、不明です。
調査しましたが、見つかりませんでした。
ただ、亡くなった直後、その死を知った人々が噂していた言葉を見つけました。
「(藤原義懐は)極楽浄土へ行ったに違いない」
と、周囲の人々は噂したといいます。
藤原義懐は、花山天皇が即位していた時代には、その権威を後ろ盾にして、好き放題やっていたといいます。
しかしその後、花山天皇と一緒に出家し、真面目に修行をしていたというのです。
20年以上の修行の日々を終えて、義懐は静かに往生を遂げた、つまり亡くなり、極楽浄土で生まれ変わったのでした。
藤原義懐の【子孫】は現在までに、どうなったのかを解説
【結論】藤原義懐の子孫には、平安時代の「大江定経の妻」という人物がいる
孫娘が、大江定経という人物に嫁いでいます。
藤原義懐の息子たちも、義懐が出家すると、そのあとを追うようにして出家しています。
そのため、直系子孫はそれほど長く続いていません。
藤原義懐の息子・藤原成房の娘が、大江定経という人物の妻となっています。
大江氏といえば、あの源義家の兵法の師である大江匡房が有名です。
また、大江匡房のひ孫で、1221年の承久の乱において、鎌倉幕府と北条義時を勝利に導いた参謀・大江広元も有名です。
その大江広元の子孫である某将・毛利元就が一番有名であると思います。
藤原義懐の孫娘が、大江匡房や広元そして毛利元就と繋がっているかどうかは、分かりませんでした。
しかし、もし繋がっているなら、藤原義懐の子孫は、現在も毛利氏に引き継がれて、続いています。
余談ですが、藤原義懐の子孫かもしれない大江氏や毛利元就は、義懐と同時代を生きた女流歌人・赤染衛門の子孫です。
赤染衛門のひ孫が、大江匡房なのです。
藤原義懐の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原義懐の死後、息子の藤原伊成が藤原道長の息子・藤原能信を殴る、という事件が起こりました。
藤原義懐が亡くなった翌年の1009年、藤原義懐の息子・藤原伊成が、藤原道長の息子・藤原能信を殴るという事件が起こりました。
ある日、藤原能信が藤原伊成を罵倒するという事件が起こりました。
これに耐えきれなかった藤原伊成は、藤原能信の肩を笏を殴りつけたといいます。
すると伊成は、松明で殴りつけられた上に、その場で即座に取り押さえられたといいます。
その翌月、藤原伊成は出家しています。
ちなみに、このとき藤原伊成を罵倒した藤原能信は、父・藤原道長の後継者である異母兄・藤原頼通を敵視し、藤原氏の栄華を終わらせるきっかけをつくった人物です。
藤原能信は、藤原氏に父・源高明を没落させられた源明子と藤原道長のあいだに生まれた子です。
源明子は、藤原氏を憎んだでしょうが、藤原氏の血を引いた我が子が、藤原氏の栄華を終わらせることになるのです。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原義懐の『死因』は?
死因は、老衰または病気
2,藤原義懐が【亡くなった日時】は?
西暦1008年8月20日(寛弘5年7月17日)に亡くなった、享年52歳
3,藤原義懐の【最後の様子】とは?
最後の様子は、極楽浄土へ間違いなく行っただろうと思えるようなに、往生したという
4,藤原義懐が【亡くなった後、それを知った人々が口にした言葉】とは?
「藤原義懐は、極楽浄土へ行ったに違いない」と噂されたという
5,藤原義懐の【子孫】とは?
子孫は、孫娘が大江定経という人物に嫁いだという
6,藤原義懐の【死後に起こった出来事】とは?
死後、息子の藤原伊成が藤原道長の息子・藤原能信を殴る、という事件が起こった。
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント