本多忠勝の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 本多忠勝の死因は、病死
- 本多忠勝は、西暦1610年12月3日(慶長15年10月18日)、享年63歳に亡くなった
- 本多忠勝が死ぬ前に手を負傷し、自分の死期を悟ったという
- 本多忠勝は、「死にたくない」という意味の辞世の句を残した
- 本多忠勝には、三木谷浩史さんという子孫がいる
- 本多忠勝の死後、大坂の陣と豊臣家滅亡という歴史的事件が起こった
この記事では、本多忠勝の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
本多忠勝の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、本多忠勝の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
本多忠勝の【死因】と【最後の様子】
本多忠勝の【死因】
【結論】本多忠勝の死因は、病死
本多忠勝のくわしい死因は不明ですが、おそらく病死であったと考えられます。
忠勝は、1604年頃から病気を理由に隠居を申し出ています。
1607年には、眼病を患っています。
あとでくわしく解説しますが、亡くなる直前に手を小刀で負傷し、そのときに
【本多忠勝も負傷したら終わり】
と言っていた逸話は有名です。
おそらくこれは、本多忠勝が眼病を患っていたことが原因で負傷したのでしょう。
実際に、この負傷の直後に亡くなったと言われています。
本多忠勝が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1610年12月3日(慶長15年10月18日)、享年63歳
本多忠勝の子孫の現在
【結論】本多忠勝の子孫には、楽天グループの創業者である三木谷浩史さんがいる
最後の将軍・徳川慶喜は、本多忠勝の息子・本多忠政を通じた子孫にあたります。
本多忠政は、家康の長男・松平信康の娘である熊姫との間に、本多忠刻という子をもうけています。
この本多忠刻が、徳川家康の孫・千姫と再婚しています。
千姫は、豊臣秀頼の妻でしたが、秀頼が大坂の陣で戦死すると、本多忠刻と再婚したのです。
千姫は、本多忠刻とのあいだに勝姫という女の子を出産。
その勝姫の子孫が、徳川慶喜なのです。
つまり徳川慶喜は、千姫や松平信康の子孫ということです。
また、2011年の静岡県浜松市の市政100周年イベントに、本多忠勝の子孫である本多隆将さんが登場しておられました。
このイベントに、徳川四天王の徳川家康と徳川四天王の子孫たちが勢ぞろいしています。
→→→→→【徳川四天王の子孫の現在】についてくわしくはこちら
【本多忠勝の生涯と最期】をザッと解説
本多忠勝の生涯を、ハイライトでザッと解説いたします。
生い立ち〜桶狭間の戦い
1548年、本多忠勝は三河国(愛知県西部)で誕生しました。
幼くして、父親である本多忠高が戦死したため、叔父・忠真のもとで育ちます。
1560年、桶狭間の戦いにおいて13歳で初陣をかざっています。
この桶狭間の戦いで、今川義元が戦死したことにより、忠勝の主君である徳川家康は独立を果たします。
忠勝はそれ以降、生涯57度の戦において、かすり傷ひとつ負わなかったといわれています。
三河一向一揆〜小牧・長久手の戦い
1563年、家康の領地である三河国で、一向宗による宗教反乱である三河一向一揆が発生。
本多忠勝も一向宗でしたが、浄土宗に改宗してまで家康への忠誠を貫いたといいます。
忠勝はその後も、姉川の戦い、二俣城の戦い、三方原の戦いなどで活躍。
三方原の戦いでは、育ての親だった叔父・本多忠真が戦死しています。
そして徳川家康の人生で最大の危機である神君伊賀越えにも参戦。
1584年、豊臣秀吉を相手に戦った小牧・長久手の戦いでは、わずか500人の兵で、敵軍16万人の前に立ちはだかり、秀吉を驚かせています。
忠勝の活躍もあり、小牧長久手の戦いは家康の勝利で終わります。
「西の立花宗茂・東の本多忠勝」
秀吉はそう言って、本多忠勝の武勇を褒めたたえたといいます。
関ヶ原の戦い〜最期まで
1600年、忠勝は天下分け目の戦い【関ヶ原の戦い】に参戦。
このとき忠勝の部隊は、その主力を徳川秀忠がひきいる軍に所属させていたため、わずか500人しかいませんでした。
しかし関ヶ原の戦い本戦で、忠勝の部隊は90以上もの敵の首を取ったといいます。
忠勝の活躍もあって、戦いは徳川軍の勝利。
戦功によって桑名10万石を与えられた忠勝は、桑名の町づくりに着手し、名君と呼ばれています。
1610年、63歳で病死。
「首を取らなくて良い。手柄などなくて良い。ただ、主君と共に討死せよ」
という遺書を残したといわれています。
本多忠勝の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】本多忠勝の辞世の句は
「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」
です
これを現代語訳すると、以下の通りです。
「死にたくない。
ああ死にたくない。
死にたくない。
家康公の深きご恩を思えば」
つまり、主君である徳川家康から受けたご恩を思えば、まだまだ尽くしたいから死にたくない、ということです。
57度の戦でかすり傷一つ負わなかったという本多忠勝は、自分を理想的な家臣とは、思っていなかったようです。
本多忠勝が残した遺書の一節を読めば、それがわかります。
それがこれです。
「侍は、たとえ敵将の首を取れなくて良い。
手柄がなくても良い。
ただ困難に挑んで逃げ出すな。
主君と一緒に討死せよ。
ただただ忠誠を守ることが大事だ。
これをこそ、真の侍というのだ。」
忠勝は、主君と一緒に死んであげることが出来ませんでした。
自分が家康に忠誠を誓っているのだということを、その死をもって証明できなかったのです。
そのため、「死にたくない。病気で死にたくない。家康公の隣で一緒に討死したい」と思っていたのでしょう。
また、先ほども解説いたしましたが、忠勝は死の間際に手を負傷し
「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」
とつぶやいたといいます。
もしかするとこれが、最後の言葉と言って良いかもしれません。
本多忠勝の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】本多忠勝の死後、【大坂の陣】という事件が起こりました。
本多忠勝の死の4年後の1614年に、【大坂の陣】が起こり、豊臣家は滅亡しています。
1614年、豊臣秀頼がつくらせた方広寺というお寺の鐘に、【国家安康・君臣豊楽】という言葉が刻まれていました。
この【国家安康】が、家康の諱を分断した極めて失礼なものでした。
→→→→→【方広寺の鐘に刻まれた国家安康】についてくわしくはこちら
これをきっかけにして、【大坂冬の陣】が勃発しました。
大坂冬の陣は、真田幸村(信繁)たちの奮戦があったものの、大坂城を無力化することで停戦。(真田信繁の兄・信之の妻は、本多忠勝の娘である稲姫)
1615年、【大坂夏の陣】が勃発し、豊臣秀頼と淀殿が自害して亡くなります。
この【大坂夏の陣】で大坂城から脱出したのが、秀頼の妻だった千姫です。
徳川家康の孫であり、秀忠の娘である千姫はこのとき、本多忠勝の孫である本多忠刻に一目惚れ。
若くして未亡人となった千姫は、その本多忠刻に嫁ぎ、勝姫を出産。
こうして勝姫から、幕末の15代将軍・徳川慶喜へと、その血筋がつながるのです。
つまり大坂夏の陣で、本多忠刻が千姫から一目惚れされなかったら、徳川慶喜の誕生はなかったことになります。
1616年、大坂夏の陣の翌年、徳川家康は役目を終えたかのように、静かに息を引き取りました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,本多忠勝の『死因』は?
死因は病気。眼病を患っていたともいわれている。
2,本多忠勝が【亡くなった日時】は?
西暦1610年12月3日(慶長15年10月18日)、享年63歳
3,本多忠勝の【最後の様子】とは?
最後の様子は、小刀で手を負傷し、「本多忠勝も傷を負ったら終わり」とつぶやき、その直後に亡くなった
4,本多忠勝の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は、「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば」
5,本多忠勝の【子孫】とは?
子孫は、最後の将軍【徳川慶喜】、楽天グループ【三木谷浩史】さん、さらに【本多隆将】さん。
6,本多忠勝の【死後に起こった出来事】とは?
死後に【大坂の陣】と【豊臣家の滅亡】という事件が起こった
以上となります。
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