この記事では、最後の将軍【徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)】の死因や最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
徳川慶喜の最期と死因について、簡単にまとめると、以下のとおりです。
この記事を短く言うと
1,徳川慶喜の『死因』は?
徳川慶喜の死因は【風邪】。
風邪をこじらせた肺炎で亡くなった
2,徳川慶喜が【亡くなった日】と【最後の様子】とは?
1913年(大正2年)11月22日
享年77歳(満年齢76歳25日)
3,徳川慶喜が口にした【死の予言】とは?
徳川慶喜は、亡くなる直前に自分の死期を悟り、周囲に対して『慌てないように』と指示していた
これを読んで、徳川慶喜の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
徳川慶喜の【死因】と【死んだ理由】は何?
徳川慶喜の【死因】
徳川慶喜の死因は【風邪】。
高齢であったためか、風邪をこじらせて急性肺炎を起こして、徳川慶喜は亡くなったのです。
徳川慶喜が亡くなった原因は【お礼まわり】だった
家近良樹さんの著書「その後の慶喜」によれば、徳川慶喜が亡くなった原因は【お礼(れい)まわり】とのことです。
慶喜は、亡くなる16日前の【1913年11月6日】に、風邪をひいているにもかかわらず無理をして、宮中へと【お礼まわり】に出かけているのです。
なぜお礼まわりなどしたのかというと、この前日の【11月5日】に、九男の誠(まこと)が、男爵の爵位をもらったためです。
慶喜の男児は、この誠を除けば全員が爵位を与えられていました。
その最後の息子が爵位を与えられたことに、慶喜は喜び、宮中へとお礼のために趣き、各家にお礼を言って回ったのです。
それが原因で風邪をこじらせて肺炎を起こし、慶喜は亡くなったのです。
徳川慶喜が亡くなった原因その2!明治天皇の崩御説
徳川慶喜が亡くなったのは、明治天皇が崩御、つまり亡くなられたことに大きなショックを受けたためという説があります。
家近良樹さんの著書「その後の慶喜」によれば、慶喜は明治天皇重体の報道がされた直後に、医師による治療を受けているのです。
明治天皇が亡くなられた約1年4ヶ月後に、慶喜は亡くなっています。
慶喜は、天皇への忠誠心が強い水戸徳川家の出身で、天皇を尊敬し崇拝していた父・徳川斉昭に育てられました。
そのため慶喜は、明治天皇に対して、父と同じく強烈な尊敬の念を抱いていたのです。
明治天皇が亡くなったあとを追うようにして、慶喜は亡くなったのです。
徳川慶喜が【亡くなった日】と【最後の言葉】とは?
【亡くなった日】と【享年】
1913年(大正2年)11月22日午前4時
享年77歳(満年齢76歳25日)
渋沢栄一伝記に記された【徳川慶喜・最後の言葉】
徳川慶喜は、最期に自らの死を予言し、周囲に対してあわてないようにと指示してから亡くなったといいます。
慶喜の最後の様子については、慶喜の家来だった渋沢栄一が残した【渋沢栄一伝記資料】に記録が残っています。
慶喜は亡くなる前日の夜に、枕許へ息子・慶久と、家来の豊崎信の二人を呼び、最後の言葉を言い残しています。
「今度の病気は、とても回復は見込めない。
私は死ぬる。
決して慌ててはならないぞ」
そう言い残したあと、慶喜は亡くなります。
葬儀委員長は渋沢栄一がつとめ、葬儀は徳川家歴代将軍とは異なり、神式で行われました。
慶喜が尊敬し続けた天皇への敬意を表すために、神式での葬儀が行われたのです。
墓地は、東京・谷中墓地。
この谷中墓地には、渋沢栄一も眠っています。
参考文献
今回の記事では、家近良樹さんの著書「その後の慶喜」を参考にさせていただきました。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,徳川慶喜の『死因』は?
徳川慶喜の死因は【風邪】。
風邪をこじらせた肺炎で亡くなった
2,徳川慶喜が【亡くなった日】と【最後の様子】とは?
1913年(大正2年)11月22日
享年77歳(満年齢76歳25日)
3,徳川慶喜が口にした【死の予言】とは?
徳川慶喜は、亡くなる直前に自分の死期を悟り、周囲に対して『慌てないように』と指示していた
以上となります。
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