皆さんは渋沢栄一(しぶさわえ いいち)を、ご存知でしょうか?
この記事では渋沢栄一を、わかりやすく、みじかく、カンタンに解説いたしました。
この記事の内容を短くまとめると、以下のとおりです。
この記事を短く言うと
- 渋沢栄一の死因は、大腸狭窄性(だいちょうきょうさくしょう)
- 亡くなった日時は、【1931年(昭和6年)11月11日】午前1時50分。享年91歳
- 最期は、息子・渋沢篤二と、孫・渋沢敬三に、手を握られたまま亡くなった
これを読めば、誰かに説明できるほど、渋沢栄一に詳しくなれます。
この記事を読んで、渋沢栄一の疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
渋沢栄一の【死因】と亡くなった日時
渋沢栄一の【死因】
渋沢栄一の死因は、【大腸狭窄症】、つまり大腸がせまくなって、つまってしまう病気です。
渋沢は亡くなる1ヶ月前、自宅の居間ベランダで、腸閉塞の手術をしています。
その後、渋沢は自宅で療養を続けていたのですが、病没してしまいました。
手術前、渋沢はみずからの身体に傷つけることについて、生んでくれた両親に謝罪する言葉を残したといわれています。
渋沢栄一の亡くなった日時と享年
【1931年(昭和6年)11月11日】午前1時50分
享年91歳
渋沢栄一の【最後の様子】
孫・渋沢昭子氏による【渋沢栄一】の最後の様子
渋沢栄一は、亡くなる1月前の10月14日に、腸閉塞の開腹手術を受け、食欲不振におちいったのです。
この手術が終わったあと、渋沢はベッドで横たわり、上半身を起こしながら、スープを毎食二口ほどしか食べられなくなったようです。
渋沢の孫の渋沢昭子氏は、自分の著書「薫習~祖父渋沢栄一の思い出~」のなかで、祖父にスープを飲ませていたエピソードを残しています。
そのとき16歳だった昭子さんは、学校から帰ると祖父の渋沢栄一にたいして
「ただいま」
と挨拶し、スープをもってくることが日課になっていたのでした。
「昭ちゃんの(つくった)スープ?」
と、小さな声で尋ねる祖父・栄一に対して、
「そうですよ」
と言って、昭子さんはスープをすくって飲ませたといいます。
実はスープをつくったのは昭子さんではなかったのですが、そばで看病していた伯母たち(渋沢栄一の娘たち)が、うなずくようにと昭子さんにうながしたため、自分がつくったことにしたらしいです。
おそらく、食が進まない渋沢栄一に対して、孫の昭子がつくったといえば、飲まないわけにはいかないと、伯母たちは思ったのでしょう
息子・渋沢秀雄氏による【渋沢栄一】の最後の様子
渋沢栄一の息子・澁澤秀雄氏が残した著書「澁澤榮一」によると、その死の床は、不思議と明るかったといいます。
それは父・渋沢栄一の人徳なのか、常に誰かが渋沢栄一のそばに寄り添っていたため、お通夜のような寂しさや暗さはなかったとのことです。
渋沢栄一が亡くなる最期の瞬間には、一方の手を息子の渋沢篤二が握り、もう一方の手を孫の渋沢敬三が握っていたのでした。
そのまま、両手を息子と孫に握られて、渋沢栄一は亡くなったのです。
渋沢栄一が残した最後の言葉
渋沢敬三の息子であり、渋沢栄一のひ孫にあたる渋沢雅英氏は、著書「太平洋に架ける橋~渋沢栄一の生涯~」において、渋沢栄一の最後の言葉を、以下のように記しています。
皆様、長い間お世話になりました。
私は100歳までも生きて働きたいと思っておりましたが、今度という今度は、もう立ち上がれそうもありません。
これは病気が悪いのであって、私が悪いのではありません。
死んだあとも、私は皆様のご事業やご健康をお守りするつもりでおりますので、どうか今後とも、他人行儀にはしてくださらないように、お願いいたします。
渋沢栄一は、死んだあとも、我々を守ってくれているのですね。
渋沢栄一の葬式の様子
渋沢栄一の葬儀には、各界から数多くの人が押し寄せました。飛鳥山の渋沢邸から青山まで、その葬列を多くの人が見送ったのです。
天皇陛下も、その死を惜しんだといわれています。
昭和天皇は、渋沢栄一の死を惜しみ、御沙汰書(ごさたしょ)というものを賜(たまわ)ったとのことです。
御沙汰書とは、天皇が国民に対して賜るお言葉のこと。
その内容は、渋沢栄一の経済界への貢献を高く評価して、ほめたたえる内容でした。
渋沢栄一の葬儀に際しては、香典などはすべて断ったとのことですが、渋沢栄一の死後に財団が設立されると、納められるはずだった香典は、渋沢栄一が志していた福祉事業への寄付金となったようです。
現在、渋沢栄一は主君だった徳川慶喜と同じく、東京都台東区にある谷中霊園の渋沢家墓地で眠っています。
参考文献
今回は渋沢栄一のご子息である渋沢秀雄さんの著書「澁澤榮一」を参考にさせていただきました。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 渋沢栄一の死因は、大腸狭窄性(だいちょうきょうさくしょう)
- 亡くなった日時は、【1931年(昭和6年)11月11日】午前1時50分。享年91歳
- 最期は、息子・渋沢篤二と、孫・渋沢敬三に、手を握られたまま亡くなった
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。
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ありがとうございました。
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コメント
コメント一覧 (1件)
渋沢栄一さんの活躍は、NHKの「晴天を衝け」がそのきっかけでしたが、私自身の生き方の指針となりました。一生は一回だけ。なら、本当にやりたいことを、社会に奉仕できる内容で、思いっきりやってみな。という事が渋沢さんの生涯から得た、私の最も大事な教えと、教えられました。
私の好きなアメリカ原住民の言葉で、「あなたが生まれた時、あなたは泣いていて、あたりの人たちは、全員わらっていたでしょ。じゃ、貴方が逝くとき、あなたが笑っていて、あたりの人たちが泣いている。そんな人生を送りなさい。」この格言がとっても好きですが、渋沢氏が、この人生を本当に全うした方だったようですね。心から尊敬し、同じように人生を生きたいと思っております。これからも渋沢栄一は私の人生の大先生と位置付けます。
有難うございます。
佐々木高行