清少納言の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 清少納言の死因は不明
- 1025年頃に亡くなった
- 死ぬ前に、古事談によれば「駿馬の骨を買うものはいないか」とお公家さんに向かって叫んだらしい
- 辞世の句は、残されていない
- 橘清成という子孫がいたらしいが、その後の子孫のゆくえは不明
- 死後、後三条天皇の「延久の荘園整理令」という歴史的事件が起こった
この記事では、清少納言の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
清少納言の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、清少納言の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
清少納言の【死因】と【最後の様子】
清少納言の【死因】
【結論】清少納言の死因は、不明
実は清少納言の死因はわかっていません。
清少納言は、つかえていた藤原定子が西暦1000年に亡くなると、その後ゆくえがわからなくなっているのです。
宮仕え、つまり京都御所でのつとめを終えた清少納言は、二人目の夫である藤原棟世のいる摂津国(現在の大阪府)に移り住んだと考えられています。
しかし1001年に、その藤原棟世が亡くなったという説がありますので、その場合、清少納言のその後の行方は再び不明ということになります。
1017年、兄が源頼親または源頼光に討たれた際に、清少納言もその場にいたといわれています。
1017年までは生きていた可能性があります。
または、1025年頃、夫・藤原棟世のいた摂津国で亡くなったとも考えられます。
清少納言が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1025年頃、享年60歳(推定)
清少納言は、いつどこで亡くなったのかが不明なので、亡くなった日も、享年も不明です。
ちなみに紫式部の死因も不明ですが、おそらく病死したと考えられます。
清少納言の【生涯年表】
清少納言の生涯を、年表でザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
974年 | 父・清原元輔の周防守赴任に際し同行、4年間を周防(山口県東部)で過ごす。 |
981年頃 | 藤原斉信の家司・橘則光と結婚。 |
982年 | 橘則長を生む。 |
993年冬頃 | 一条天皇の中宮定子に私的な女房として仕える。 |
998年頃 | 橘則光と離婚 |
1000年 | 中宮・藤原定子が出産時に亡くなり、宮仕えを辞す。 |
1001年頃 | 摂津守・藤原棟世と再婚し娘・小馬命婦をもうける。 |
1017年4月7日 | 兄・清原致信が源頼親または源頼光によって殺害される。 |
1025年頃 | 60歳で病死(推定)。 |
清少納言の【辞世の句】または【残した言葉】とその意味を解説
【結論】清少納言の辞世の句、または最後に残した言葉は、不明です。
清少納言の辞世の句などは、わかっていません。
いつどこで亡くなったのかが不明なので、辞世の句も記録がないのです。
ただ、古事談という書に、清少納言が登場しています。
清少納言の邸宅前を通りかかったお公家さんたちが
「清少納言も落ちぶれたものだ」
と嘆くと、尼の姿で現れた清少納言が
「駿馬の骨を買うものはいないか!」
と古代中国の歴史書「戦国策」の逸話に登場するセリフを口にしたというのです。
京都市の新京極にある誓願寺というお寺には、清少納言がこのお寺で出家し、亡くなったという言い伝えがあるようです。
ちなみに、清少納言が口にした言葉の意味については、以下のリンク記事で詳しく解説されています
清少納言の【子孫】は現在、どうなっているのかを解説
【結論】清少納言の子孫には、橘清成という人物がいる
清少納言の子孫が、現在も続いているかどうか、不明です。
清少納言は、二人の子がいました。
最初の夫である橘則光とのあいだに、橘則長という息子をもうけています。
また、二人目の夫である藤原棟世とのあいだに、小馬命婦という名前の娘をもうけています。
この清少納言の娘である小馬命婦については、一人の娘がいました。
すなわち清少納言の孫娘にあたります。
この清少納言の孫娘が、なんと紫式部の孫である高階為家と交際していたといいます。
ところが二人は破局してしまったといいます。
清少納言と紫式部の孫同士の交際について、くわしくは以下のリンク記事で解説しております。
清少納言の息子・橘則長については、少しだけ子孫の行方がわかっています。
橘則長は、橘則季という子供を儲け、その橘則季は、橘清信という子供をもうけているのです。
- 清少納言
- 橘則長
- 橘則季
- 橘清信
と、つまり清少納言のひ孫「橘清信」までは、子孫が続いていたことがわかっています。
しかし、その後はわかりませんでした。
橘清信が、清則という息子をさずかり、橘清成という孫までつながったという説もあるようです。
- 清少納言
- 橘則長
- 橘則季
- 橘清信
- 橘清則
- 橘清成
と、続いた可能性があるようですが、本当かどうか定かではありません。
ちなみに、清少納言のライバル・紫式部の子孫には、平清盛の長男・重盛がいます。
また、現在の天皇陛下も、紫式部の子孫です。
清少納言の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】清少納言の死後、後三条天皇の延久の荘園整理令、という事件が起こりました。
清少納言が亡くなった後、1069年、藤原道長と縁の少ない後三条天皇が、延久の荘園整理令を発令し、藤原氏の栄華が終わりをむかえることになります。
荘園とは、すなわち私有地で、そこから得られる利益が、藤原氏の栄華を支えていました。
しかし後三条天皇は、藤原氏の力の源である荘園を没収するため、荘園整理令を発令。
こうして藤原氏は力を失って、栄華は終わりをむかえます。
後三条天皇の息子である白河天皇は、その後出家して白河法皇となり、院政を開始します。
サイコロ・鴨川・山法師。この3つ以外すべて私の思うままだ
と、まるで藤原道長が
「この世は我が世」
と歌った「望月の歌」に似た言葉を豪語するほどの、圧倒的な権力を誇ったのでした。
その後、白河法皇の権力は、白河法皇の隠し子と噂された平清盛と、その息子で紫式部の血を引く平重盛たちに奪われます。
平家にあらずんば人にあらず
と豪語した平家は、1185年の「壇ノ浦の戦い」で、波の下にある都を夢見て、海に沈むこととなります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,清少納言の『死因』は?
死因は不明
2,清少納言が【亡くなった日時】は?
西暦1025年頃
享年60歳(推定)
3,清少納言の【最後の様子】とは?
最後の様子は不明だが、京都・誓願寺で出家し、往生したという逸話があるらしい
4,清少納言の【最期の言葉】とは?
辞世の句または最後の言葉は不明。しかし古事談に「駿馬の骨を買うものはいないか」と叫んだ逸話が残されている
5,清少納言の【子孫】とは?
子孫は、橘清成という人物まで続いたが、その後は不明
6,清少納言の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、後三条天皇の延久の荘園整理令、という事件が起こった
以上となります。
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