藤原隆家の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原隆家の死因は、病死または老衰
- 西暦1044年2月2日(寛徳元年1月1日)に亡くなった、享年66歳
- 死ぬ前に、太宰府の長官である太宰府権帥を務めた
- 一条天皇に対して「人非人」と罵る言葉を残した
- 平清盛の継母・池禅尼という子孫がいる
- 死後、、後冷泉天皇の即位、という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原隆家の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原隆家の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原隆家の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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藤原隆家の【死因】と【最後の様子】
藤原隆家の【死因】
【結論】藤原隆家の死因は、病死または老衰
詳しい死因は不明ですが、おそらく老衰または病死でしょう。
事故や誰かに命を奪われたという記録がありません。
乱暴者で有名な藤原隆家のことですから、誰かに襲われることもあるかもしれません。
しかしそれらしい記録はなく、年齢も、当時としては老衰で亡くなってもおかしくない年齢です。
老衰または病死で間違いないでしょう。
藤原隆家が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1044年2月2日(寛徳元年1月1日)、享年66歳
藤原隆家の【生涯年表】
藤原隆家の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
979年 | 藤原隆家、天元2年、藤原道隆の四男として誕生(母は高階貴子) |
989年 | 永祚元年、11歳で元服、従五位下に叙爵 |
990年 | 永祚2年、侍従に任官 |
991年 | 正暦2年、従五位上 |
992年 | 正暦3年、正五位下・左近衛少将 |
993年 | 正暦4年、従四位上・右近衛中将 |
994年 | 正暦5年、正四位下・中将を帯びたまま従三位に叙せられ公卿に列する |
995年 | 長徳元年、権中納言に任ぜられる |
995年 | 長徳元年、父・藤原道隆が死去(道隆の弟・道兼も直後に病死) |
995年 | 長徳元年、藤原道長が執政となる |
996年 | 長徳2年、花山法皇奉射・東三条院呪詛・大元帥法実施の罪状で出雲権守に左遷(長徳の変) |
998年 | 長徳4年、東三条院の御悩による大赦を受けて帰京 |
998年 | 長徳4年、兵部卿として官界に復帰 |
1002年 | 長保4年、権中納言に復す |
1007年 | 寛弘4年、従二位 |
1009年 | 寛弘6年、中納言に叙任 |
1010年 | 寛弘7年、兄・藤原伊周が死去 |
1011年 | 寛弘8年、三条天皇が践祚 |
1012年 | 長和元年、眼病を患い邸宅に籠居 |
1014年 | 長和3年、大宰権帥に任ぜられる |
1015年 | 長和4年、正二位に叙せられる |
1019年 | 寛仁3年、刀伊の入寇を撃退 |
1019年 | 寛仁3年、大宰権帥を辞して帰京 |
1023年 | 治安3年、中納言を辞退 |
1037年 | 長暦元年、再度大宰権帥に任ぜられる |
1042年 | 長久3年、大宰権帥を辞任 |
1044年 | 長久5年、薨去 |
藤原隆家が【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原隆家が残した言葉として有名なものは
一条天皇に対する「人非人」というセリフです
藤原隆家の辞世の句は、調査しましたが分かりませんでした。
不明です。
しかし、藤原隆家が残した言葉として、「人非人」という言葉があります。
隆家は、姉・藤原定子の夫である一条天皇が、姉に産ませた敦康親王を、皇太子(次の天皇候補者)にできなかったことを知り、こう言って一条天皇をののしったといいます。
「人非人」とは、つまりは「ひとでなし」という意味です。
隆家の姉・藤原定子は、一条天皇の寵愛を受けたものの、悲劇的な最期を迎えました。
その後、隆家の兄・伊周が亡くなり、隆家たち「中関白家」は、すっかり没落していたのです。
その定子が残した子・敦康親王が天皇に即位すれば、叔父にあたる藤原隆家たちは、一気に権力を回復するだろうと期待されていたのです。
敦康親王を、武勇で名の知れた隆家が補佐すれば、世も平和になるだろうとまで言われていたのです。
ところが、一条天皇には、藤原彰子という、もうひとりの妻がいました。
一条天皇は、何度も敦康親王を皇太子にしようとしました。
しかし、彰子の父・藤原道長に妨害され、失敗に終わっていたのです。
「敦康親王には、後ろ盾となる有力な母方の実家がないので、天皇にするわけにはいかない」
と周囲が大反対したのです。
実際に後ろ盾がいない天皇は長続きしませんし、世の中が混乱しかねないのです。
一条天皇の前の天皇・花山天皇は、後ろ盾がいなかったため、わずか2年で位をゆずっています。
結果として一条天皇は、いとこの三条天皇に位をゆずり、彰子とのあいだに生まれた後一条天皇を皇太子に任命しました。
これを聞いた隆家は、亡き姉の子を皇太子にできなかった一条天皇に対して
「人非人」
と罵ったのです。
しかし、一条天皇からすれば、これはおそらく心外だったでしょう。
一条天皇からすれば、定子の実家である中関白家を率いる隆家がしっかりしていれば、最愛の女性である定子の子・敦康親王を皇太子にできたのです。
にもかかわらず隆家は、叔父・道長の従者と乱闘騒ぎは起こすわ、花山法皇の袖を矢で射抜いて従者の首を持っていくわと、やりたい放題。
一条天皇の足を引っ張りまくっておきながら、「人非人」呼ばわりとは、ひどいものです。
しかしその気骨のある言動で、刀伊の入寇と呼ばれる海賊(女真族)による九州襲撃を撃退したりと、民衆から人気があったことも事実のようです。
藤原隆家の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原隆家の子孫には、平安時代末期の池禅尼という人物がいる。また、南北朝時代の坊門清忠も、子孫にあたる
藤原隆家の子孫には、あの平清盛の継母である池禅尼という人物がいます。(池禅尼は、隆家の孫の孫の娘にあたる)
池禅尼は、平清盛の父・平忠盛の後妻です。
平治の乱で捕らわれの身となった13歳の源頼朝に対して
「死んだ我が子・家盛と瓜二つだ」
と言って、義理の息子・清盛に対して必死の助命嘆願を行った人物です。(家盛とは、平清盛の異母弟で、池禅尼が産んだ最初の子。若くして亡くなった)
結局、清盛はこれに根負けし、源頼朝の命を救ったのでした。
ところがその後、源頼朝は平家打倒のために挙兵。
激怒した清盛は、死の間際に
「供養は必要なし。我が墓前に頼朝の首を供えよ」
と叫んで病死したのでした。
平家はその後、壇ノ浦の戦いで滅亡します。(このとき紫式部やその弟・藤原惟規の子孫が入水している)
しかし、平家一門で一人だけ生き残った者がいます。
池禅尼の息子であり、平清盛の異母弟である平頼盛です。
頼盛は、平家都落ちには同行せず、源頼朝に降伏。
頼朝も、命の恩人・池禅尼の子である頼盛を大切にしたといいます。
承久の乱で後鳥羽上皇が流罪となったあとで、天皇となった後堀河天皇は、平頼盛のひ孫です。
そのため、後堀河天皇とその子である四条天皇も、藤原隆家の女系子孫にあたります。
しかし四条天皇は、子供がいなかったため、子孫を残していません。
また、頼盛の子孫が池氏と名乗って、全国に子孫が続いているといいます。
それと、隆家の子孫は、女系によって五摂家と呼ばれる名門・九条家に引き継がれています。
そこから皇室にも子孫がつながっているので、現在の天皇陛下も、隆家の子孫にあたります。
また、九条家の子孫は、2023年現在、明治神宮宮司・九条道成さんという方がおられます。
さらには、公家の名門である「藤原北家水無瀬流」の五家
- 水無瀬家
- 七条家
- 町尻家
- 桜井家
- 山井家
も、隆家の子孫であり、今も続いています。
南北朝時代に活躍した肥後(熊本)の豪族・菊池一族は、隆家の子孫を自称しています。
最後に、南北朝時代に後醍醐天皇につかえ、名将・楠木正成の死の原因となった坊門清忠も、隆家の子孫です。
藤原隆家の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原隆家の死後、後冷泉天皇の即位、という事件が起こりました。
藤原隆家が亡くなった翌年の1045年、後朱雀天皇から位を譲られた息子の後冷泉天皇が即位しています。
この後冷泉天皇が崩御したことがきっかけで、藤原氏の栄華は終わることになります。
後冷泉天皇は、藤原道長の孫にあたるお方です。
道長の息子・藤原頼通は、自分の娘を後冷泉天皇に嫁がせています。
男児が生まれたら、その子を天皇にするつもりだったのです。
そして、その子の後ろ盾になって、権力を振るうつもりでした。
父・藤原道長と同じやり方で、権力を握ろうとしたのです。
しかし、頼通の願いは叶わず、子供は生まれませんでした。
結果として、藤原頼通は失意のうちに引退。
後冷泉天皇が崩御して、即位したのが、後冷泉天皇の弟にあたる後三条天皇です。
後三条天皇は、190年ぶりに、藤原氏を外戚としない天皇でした。(外戚とは、天皇の母親の一族のこと。後三条天皇の母は、三条天皇の娘である禎子内親王)
つまり藤原氏を後ろ盾にしない天皇だったのです。
これはつまり、藤原氏にとって都合の良い政治をしてくれない天皇だったという意味です。
実際に後三条天皇は、藤原氏の権力を奪うような政治を行います。
これにより権力を失った藤原氏は、衰退していくことになるのです。
余談ですが、後三条天皇の乳母つまり教育係を務めたのは、大弐三位(藤原賢子)という女性でした。
大弐三位は、紫式部の娘です。
壇ノ浦の戦いで入水した平資盛・行盛・有盛は、大弐三位の子孫です。
また、壇ノ浦の戦いで入水しながら救出された藤原輔子は、紫式部の弟・藤原惟規の子孫です。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原隆家の『死因』は?
死因は、病死または老衰
2,藤原隆家が【亡くなった日時】は?
西暦1044年2月2日(寛徳元年1月1日)に亡くなった、享年66歳
3,藤原隆家の【最後の様子】とは?
亡くなる2年前まで、九州の太宰府長官である太宰府権帥を務めた
4,藤原隆家が【残した言葉】とは?
一条天皇に対して「人非人」と罵る言葉が記録に残っている
5,藤原隆家の【子孫】とは?
子孫は、平清盛の継母・池禅尼
6,藤原隆家の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、後冷泉天皇の即位、という事件が起こった
以上となります。
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