藤原伊周の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原伊周の死因は病死
- 西暦1010年2月14日(寛弘7年1月28日)に亡くなった、享年37歳
- 死ぬ前に、息子や娘に遺言を残した
- 「人に追従して生きるよりも、出家しなさい」という言葉を息子に残した
- 子孫は、藤原忠通や、現在の天皇陛下または九条道成さん、細川護煕さんがいる
- 死後、一条天皇の崩御、という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原伊周の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原伊周の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原伊周の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
専門サイト【最期と死因ドットコム】へようこそ。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原伊周の【死因】と【最後の様子】
藤原伊周の【死因】
【結論】藤原伊周の死因は、病死
藤原伊周の死因は病死です。
詳しい病名は不明ですが、出世の道を絶たれてしまったため、失意のうちに亡くなったといいます。
叔父である藤原道長との権力闘争に敗れ、妹・定子が産んだ敦康親王が天皇に即位する可能性も薄れた中、病死しています。
藤原伊周が【亡くなった日】と【享年】
【結論】西暦1010年2月14日(寛弘7年1月28日)、享年37歳
藤原伊周の【生涯年表】
藤原伊周の生涯を、ザッと解説いたします。
西暦 | 出来事 |
---|---|
974年 | 藤原伊周、藤原道隆の長男として生まれる。 |
985年 | 12歳で元服。 |
986年 | 一条天皇の即位式に参列。 |
987年 | 右近衛少将に任官。 |
988年 | 従四位下。 |
989年 | 従四位上。 |
990年 | 右近衛中将・蔵人頭。 |
991年 | 参議に任ぜられ公卿に列す。 |
992年 | 権大納言。 |
994年 | 内大臣に昇進。 |
995年 | 父・道隆が病に倒れ、内覧を命じられる。 |
996年 | 叔父・道長との政争に敗れ、大宰権帥に左遷される。 |
997年 | 赦免され帰京。 |
1000年 | 妹・定子が皇后宮となる。 |
1001年 | 定子崩御。 |
1003年 | 従二位。 |
1005年 | 准大臣。 |
1008年 | 大臣に准ぜられる。 |
1009年 | 正二位。 |
1010年 | 37歳で病没。 |
藤原伊周が【残した言葉】とその意味を解説
【結論】藤原伊周が最期に残した言葉は
「人に追従して生きるよりも、出家しなさい」
です
伊周は亡くなる直前に、息子・藤原道雅に対して、このように言ったといいます。
叔父・藤原道長との権力闘争に敗北し、権力を極めることができなかったことへの失望が、そう言わせたのでしょう。
そういわれた息子はというと、出家はしなかったようです。
息子の藤原道雅は、乱暴な性格が災いしてか、出世することができなかったといいます。
娘たちに対しても、最後の言葉を残しています。
「くれぐれも、宮仕えをして、親の名を汚すようなことがないようにしなさい」
伊周の次女は、ライバルであった叔父・藤原道長の娘・彰子につかえるという立場におちいっています。
長女はというと、藤原道長の次男に嫁ぎ、伊周の血筋を現代へとつなげています。
藤原伊周の【子孫】は、どうなったのかを解説
【結論】藤原伊周の子孫には、現代の天皇陛下、明治神宮宮司の九条道成さん、そして元総理大臣の細川護煕さん、という人物がいる
藤原伊周の子孫で現代につながる方としては、現在の天皇陛下がおられます。
伊周の長女が、藤原道長の次男に嫁ぎ、その子孫が、藤原忠実という人なのです。
藤原忠実とは、のちに五摂家と呼ばれることになる、5つの藤原氏の家の基礎となったお方です。
この方から、藤原氏は
- 近衛家
- 九条家
- 二条家
- 一条家
- 鷹司家
と、5つの家に分かれたのでした。
その五摂家から、天皇家へ何度も入内つまり女性が天皇に輿入れしています。
そのため、伊周の子孫である藤原忠実を通じて、伊周の血筋は、五摂家と天皇家に引き継がれているのです。
現在も、五摂家は続いておりますので、5つの家の当主は、藤原伊周の子孫にあたります。
九条家の当主で、明治神宮の宮司である九条道成さんも、伊周の子孫です。
九条道成さんは、伊周の先祖である藤原氏の祖・中臣鎌足と、直接血が繋がった子孫として有名です。
また、元首相の細川護煕さんも、近衛家出身ですので、伊周の子孫です。
ちなみに、伊周の子孫にあたる藤原忠実には、二人の子がいました。
藤原忠通と藤原頼長です。(当然ながらこの二人も、藤原伊周の子孫にあたる)
二人は保元の乱と呼ばれる乱で対立し、頼長は敗北し、亡くなっています。
この保元の乱で、藤原頼長や源為朝を相手に活躍したのが、平清盛と、紫式部の子孫にあたる平重盛です。
つまり伊周の子孫は、紫式部の子孫に、保元の乱で敗北したのです。
余談になりますが、伊周の弟・藤原隆家の子孫には、平治の乱で平重盛と共に源頼朝の命乞いをした池禅尼という女性がいます。
藤原伊周の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原伊周の死後、一条天皇の崩御、という事件が起こりました。
藤原伊周が亡くなった翌年の1011年、一条天皇が崩御しています。
一条天皇は、どうやら伊周のことをよく思ってはいなかったようです。
なぜなら、問題ばかり起こして伊周が権力を失ったがために、一条天皇は寵愛していた定子の子・敦康親王を、皇太子つまり次の天皇に定めることができなかったためです。
どういうことかというと、一条天皇は、何度も定子が産んだ敦康親王を、皇太子つまり次の天皇にしたいと希望していました。
ところが、有力な後見人がいないことが理由で、敦康親王を後継者にできなかったのです。
通常、次期天皇になる人物は、母親の実家が後ろ盾になって、その力で後見してもらうものなのです。
ところが、敦康親王の母・定子の実家は、伊周や隆家という、乱暴者が取り仕切っていました。
そのため、人望も力も無くなっていたのです。
これに対して、一条天皇としては、伊周たちに「余計なことをしてくれる」と、内心では苦々しく思っていたのかもしれません。
結果として、一条天皇と定子のあいだに生まれた子は、天皇になれませんでした。
その代わりに、一条天皇と彰子のあいだに生まれた子は、二人とも天皇に即位しています。(後一条天皇と後朱雀天皇)
一条天皇の死後、そのいとこにあたる三条天皇が即位します。
三条天皇は、藤原道長の娘・藤原姸子を妻としています。
ところが三条天皇は道長とは関係が悪く、眼病を理由に位を降りることになるのです。
そして次に即位した後一条天皇(一条天皇と彰子の息子)に、道長はまたしても娘の藤原威子を中宮つまり妻として入内させます。
こうして道長は、一家三立后という、つまりは
- 天皇の后である皇后(後一条天皇の中宮・威子)
- 先代の天皇の后である皇太后(三条天皇の中宮・姸子)
- 先々代の天皇の后である太皇太后(一条天皇の皇后・彰子)
これら全てを、自分の娘から出した偉業を達成したのです。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思えば」
(この世はまるで私のための世であるようだ。満月のように欠けたところなどまるでない)
という歌を残すほど、栄華の絶頂を迎えたのでした。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原伊周の『死因』は?
死因は病死
2,藤原伊周が【亡くなった日時】は?
西暦1010年2月14日(寛弘7年1月28日)に亡くなった、享年37歳
3,藤原伊周の【最後の様子】とは?
最後の様子は、失意の中で、息子や娘に遺言を残して亡くなった。
4,藤原伊周の【最期の言葉】とは?
最後に「人に追従して生きるよりも、出家しなさい」という言葉を息子に残した
5,藤原伊周の【子孫】とは?
子孫は、藤原忠通や、現在の天皇陛下または九条道成さん、細川護煕さんがいる
6,藤原伊周の【死後に起こった出来事】とは?
死後に、一条天皇の崩御、という事件が起こった
以上となります。
本日は当サイトへお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当サイトへお越しくださいませ。
ありがとうございました。
コメント