藤原公任の【死因】や【最後の様子】について、短くまとめると、以下のとおりです。
- 藤原公任の死因は、湿瘡という皮膚病
- 1041年2月4日(長久2年1月1日)に亡くなった
- 死ぬ前に、歌人・藤原範永の和歌を絶賛した
- 小倉百人一首に選ばれた「滝」の歌を残した
- 益田元祥という子孫がいる
- 死後、前九年の役という歴史的事件が起こった
この記事では、藤原公任の最期の様子について、ひと目で分かるようにまとめました。
藤原公任の最期と死因について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです。
これを読んで、藤原公任の最期についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。
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どうぞ、ごゆっくりお過ごしくださいませ。
藤原公任の【死因】と【最後の様子】
藤原公任の【死因】
【結論】藤原公任の死因は、湿瘡という皮膚病
湿瘡とは、虫が寄生することで、皮膚に湿疹が発生する皮膚病です。
かゆみが全身に広まる病気です。
藤原公任は、年末からこの病気にかかり、十日ほど苦しんだあと亡くなったといいます。
藤原公任が【亡くなった日】と【享年】
【結論】1041年2月4日(長久2年1月1日)、享年76歳
藤原公任の子孫の現在
【結論】藤原公任の子孫には、現在騎手として活躍する御神本訓史さん、また戦国時代の益田元祥という人物がいる
藤原公任の子孫が石見国(島根県)へ移動し、益田氏の祖になったといわれています。
この当時、益田氏は西国最大の戦国大名・大内氏に仕えていました。
しかし戦国一の智将・毛利元就に攻められた益田元祥は降伏し、その後は毛利家に仕えています。
もう一人、幕末に活躍した子孫がいます。
幕末に起こった禁門の変(蛤御門の変)において、長州藩は第一次長州征伐で幕府軍に攻撃されかけます。
ところがこのとき、西郷隆盛の仲介もあり、毛利家の3人の家老が切腹して、幕府の長州征伐が中止されています。
このとき切腹した家老の一人が、益田家の益田親施という人物です。
益田親施は、吉田松陰先生から、兵学を学んだ人物です。(松下村塾の塾生ではない)
その後、益田氏の子孫は男爵となって長州を離れ、現在は東京にお住まいだということです。
また、2023年現在、騎手として活躍しておられる御神本訓史さんも、益田氏の末裔なので、藤原公任の子孫であると考えられます。
余談ですが、藤原公任の盟友・藤原道長の子孫もまた、現在東京におられ、明治神宮の神職を務めておられます。
藤原氏の子孫には、芸能人もおられるようです。
藤原公任の子孫には、幕末明治に活躍した政治家・副島種臣の血筋も引き継がれているようです。
【藤原公任の生涯年表】を解説
年 | 出来事 |
---|---|
980年 | 清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙せられる。 |
981年 | 従四位下に昇進。 |
982年 | 従四位上に昇進。 |
983年 | 左近衛権中将に任ぜられ、正四位下に叙任。 |
985年 | 正四位下に叙任。 |
986年 | 一条天皇即位に伴い、政権が小野宮流(藤原実資)から九条流(藤原道長たち)に移る。公任は進内侍に揶揄されるなどの出来事があり、昇進が停滞する。 |
989年 | 蔵人頭(頭中将)に任ぜられる。 |
992年 | 参議として公卿に列し、近衛中将を免ぜられる。 |
993年 | 藤原道隆に不満を持ち、一時勅勘を蒙り参内を止める。 |
995年 | 執政の座が藤原道長に移る。 |
999年 | 14年ぶりに昇叙されて従三位になる。道長に接近する。 |
1005年 | 参議の上席に任ぜられ、正三位に叙せられる。 |
1009年 | 権大納言に昇進。 |
1021年 | 長女を藤原教通に嫁がせる。 |
1024年 | 権大納言の官職を辞任し、出家。解脱寺で僧としての生活を始める。 |
1041年 |
76歳で亡くなる。 |
藤原公任が残した【小倉百人一首の歌】とその意味を解説
【結論】藤原公任は、百人一首の一つである
「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」
という歌を残しています
この歌を現代語訳すると
「滝が流れて落ちる音が聞こえなくなって久しいけれど、その滝の評判だけは流れて伝わって来て、今も人々の中で聞こえているんだ」
この歌は、滝の音と人からの評判を、同じく「流れるもの」とみなしている歌です。
音は距離をおけば聞こえなくなります。
しかしその見事な滝の評判は、距離をあけても聞こえてくるものだと、評判は人を伝って聞こえてくることに不思議さを感じている歌です。
藤原公任が亡くなる前にしたこととは?
藤原公任は、亡くなる前にまだ若かった歌人・藤原範永がつくった和歌を絶賛したという逸話があります。
公任の息子・藤原定頼が、月見を行ったときによまれた和歌を、まとめて公任に贈ったのです。
公任はその中から、当時まだ広く知られていなかった藤原範永の優れた和歌を見つけ、絶賛しました。
このことを聞いた範永は、その詠草(紙に書かれた和歌)をもらい受け、大切に保管したのだとか。
その詠草は、錦の袋に入れられて、藤原範永はこれを家宝としたというのです。
歌の素晴らしさを見抜く藤原公任の和歌の能力を物語るエピソードです。
藤原公任の死によって、道長の栄華を支えた四納言(源俊賢・藤原斉信・藤原行成・藤原公任)は、全員が亡くなったことになります。
藤原公任の【死後に起こった歴史的な出来事】とは?
【結論】藤原公任の死後、【前九年の役】という事件が起こりました。
藤原公任が亡くなった10年後の1051年、東北地方で『前九年の役』が起こっています。
これは、源頼義とその息子である源義家が、清原氏と協力して、安倍氏を滅ぼした戦いでした。
現地の豪族だった安倍氏が、朝廷に服従しなくなったため、源頼義がこれを討伐。
この戦いで名を挙げた源頼義と源義家は、伝説的な武将として、その後あらゆる武将たちから崇拝されることになります。
また、この戦いで奥州の支配者となった清原氏から出た【藤原清衡】は、その後、奥州に三代にわたる栄華を極めることとなるのです。
この前九年の役は、藤原道長たち摂関家や天皇・上皇に代わり、数百年にわたって日本を支配する武士の世の始まりの事件となりました。
源義家の玄孫(孫の孫)にあたる源頼朝が、日本初の武家政権・鎌倉幕府を開き、1189年に奥州藤原氏を滅亡させることになります。
まとめ
この記事をまとめますと、以下の通り
この記事を短く言うと
1,藤原公任の『死因』は?
死因は、湿瘡という皮膚病
2,【亡くなった日時】は?
1041年2月4日(長久2年1月1日)
享年76歳
3,【最後の様子】とは?
最後の様子は、年末に皮膚病にかかって10日ほど苦しんだあと、亡くなった。
4,【残した歌】とは?
残した歌は、滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ
5,【子孫】とは?
子孫は、戦国時代の益田元祥という武将。
6,【死後に起こった出来事】とは?
死から10年後に奥州で【前九年の役】という事件が起こった
以上となります。
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